2010年05月06日
臨時休廊
5月6日7日振替休廊とさせていただきます。土曜日より開廊いたします。ただし、笠島地区町並み保存会総会の為、11時-14時までギャラリーは閉じています。変則的な時間となりますが、宜しくお願いいたします。
2010年05月05日
r連休忙殺された・・忙しかった
本島笠島地区は観光地だと思った。
島外からの来客で、アルテはカフェ化した5日間でした。
5日今日はやっと落ち着き、5名の方が訪れた程度でしたが
1日から忙しさに追われました。
2日は2時から審査会場として使用するので、閉じていたのですが
それでも数組の方が、食事を希望されたのですが、応えてあげられなくて
申し訳なかったです。
3日は、夜は恩師の野口先生が、東京と愛媛にお住まいのお友達と
3人で笠島の大倉邸に泊まられて、夕食と朝食をアルテでおつくりしました。
その後、やはり食事希望の方が続き、なんどもあわただしく過ごすことになりました。
4日は、チバさんが尋ねてくださったので、お手伝いをしてくださって、なんとか
乗り切りました。
気候もよく、遠出の方が訪れる本島は、連休は忙しかったのでした。
みなさん、「この島の雰囲気、笠島地区の伝建保存地区のたたずまいに
魅了された」とお話されていました。
飲食業は大変な仕事だということを実感しました。
いい経験でした。つたない料理を喜んでいただき、
ありがとうございます。一度に注文を受けるとあわてます。
大変失礼申し上げました。
またのお越しをお待ち申し上げます。
2010年05月05日
食とアートのプロジェクト
5月2日、食とアートのプロジェクト
アーティスト・イン塩飽本島 『~晴れに耕す。そしてアート~』二次審査を
ギャラリーアルテにて行いました。
食とアートのプロジェクト
アーティスト・イン塩本島 『~晴れに耕す。そしてアート~』二次審査概要
日時 5月2日午後二時より
会場 ギャラリーアルテにて
2つの計画【A食・野菜栽培 + Bアートの展開】によって地域の人々との交流を生み出し、地域の活力
の創造を目的とするプロジェクトです。
「Art Love Food」というテーマに沿った内容の創作を行うアーティストを募集します。
滞在中、地域の文化、環境などからアイディアを得て、創作活動を行い、新たな作品を通じて
『住民への飲食の場づくり』『土産物づくり』に繫がるアクションプランを募集しました。
以下の4名の方がB部門応募アーティストとして、本島へお越しいただきました。
佐藤佳紀 さん(京都)
柴田智明 さん(東京)
松宮硝子 さん(東京)
山田健二 さん(東京)
審査をお願いした方々は、以下の方々
吉川神津夫氏 徳島県立美術館学芸員
平野祐一氏 平野地域計画設計事務所主宰
高島昭夫氏 笠島地区自治会長
梅谷幾代 ギャラリーアルテ+SAW(瀬戸内アートウェーブ)主宰
5時まで、とてもユニークで楽しい審査会となりました。
レジデンス作家として2名が選出されます。
*****************
それにしても皆さん素敵なアーティストでした。全てを今お話できないのですが
記憶に残る出会いばかりでした。
柴田智明さんは、30日から本島入りして、30日は野宿されてたそうです。
1日は、丸亀のまきちゃん宅にお泊りしていただきました。
山田健二さんは、2日面接日に本島入り。でももう一泊して東京へ戻る予定
だったので、2日夜は丸亀まきちゃん宅にお泊りして、3日7時のフェリーで
まきちゃんと一緒に再び本島へやってきてくれました。
松宮硝子さんは、東京から1日夜行バスで丸亀へ、2日終了後、本島ー児島経由で
戻られました。
佐藤佳紀さんは、香川出身。現在京都造形大学生なので、京都ー本島ー香川ー京都
という経路で戻られたのでは?
皆さんひとまず、お疲れ様でした。
そして、選出された2名の方には、7月から2ヶ月の滞在制作をお願い致します。
アーティスト・イン塩飽本島 『~晴れに耕す。そしてアート~』二次審査を
ギャラリーアルテにて行いました。
食とアートのプロジェクト
アーティスト・イン塩本島 『~晴れに耕す。そしてアート~』二次審査概要
日時 5月2日午後二時より
会場 ギャラリーアルテにて
2つの計画【A食・野菜栽培 + Bアートの展開】によって地域の人々との交流を生み出し、地域の活力
の創造を目的とするプロジェクトです。
「Art Love Food」というテーマに沿った内容の創作を行うアーティストを募集します。
滞在中、地域の文化、環境などからアイディアを得て、創作活動を行い、新たな作品を通じて
『住民への飲食の場づくり』『土産物づくり』に繫がるアクションプランを募集しました。
以下の4名の方がB部門応募アーティストとして、本島へお越しいただきました。
佐藤佳紀 さん(京都)
柴田智明 さん(東京)
松宮硝子 さん(東京)
山田健二 さん(東京)
審査をお願いした方々は、以下の方々
吉川神津夫氏 徳島県立美術館学芸員
平野祐一氏 平野地域計画設計事務所主宰
高島昭夫氏 笠島地区自治会長
梅谷幾代 ギャラリーアルテ+SAW(瀬戸内アートウェーブ)主宰
5時まで、とてもユニークで楽しい審査会となりました。
レジデンス作家として2名が選出されます。
*****************
それにしても皆さん素敵なアーティストでした。全てを今お話できないのですが
記憶に残る出会いばかりでした。
柴田智明さんは、30日から本島入りして、30日は野宿されてたそうです。
1日は、丸亀のまきちゃん宅にお泊りしていただきました。
山田健二さんは、2日面接日に本島入り。でももう一泊して東京へ戻る予定
だったので、2日夜は丸亀まきちゃん宅にお泊りして、3日7時のフェリーで
まきちゃんと一緒に再び本島へやってきてくれました。
松宮硝子さんは、東京から1日夜行バスで丸亀へ、2日終了後、本島ー児島経由で
戻られました。
佐藤佳紀さんは、香川出身。現在京都造形大学生なので、京都ー本島ー香川ー京都
という経路で戻られたのでは?
皆さんひとまず、お疲れ様でした。
そして、選出された2名の方には、7月から2ヶ月の滞在制作をお願い致します。
2010年05月01日
本島じょうじ丸さま
このブログご覧になったらご連絡いただけないでしょうか?
仕えるように直していただいた給湯器が夕方からエラー表示で
また使用不可になりました。
目詰まりでしょうか?
お手数ですが、また見ていただけないでしょうか?
5日まで本島に滞在しています。
ご無理をお願いしますが、お力をお貸しくださいませんか?
よろしくお願いいたします。
梅谷拝
仕えるように直していただいた給湯器が夕方からエラー表示で
また使用不可になりました。
目詰まりでしょうか?
お手数ですが、また見ていただけないでしょうか?
5日まで本島に滞在しています。
ご無理をお願いしますが、お力をお貸しくださいませんか?
よろしくお願いいたします。
梅谷拝
2010年05月01日
腰がいたい
今日も来客(カフェ)が多く、続き
腰痛が・・。たちっぱなしなので腰が痛くなる。
朝食は食べる前に支度をしていたが、
島のかたも含めて食事の予約
3日に知人が大倉邸という民宿に滞在するので
食事の依頼を之電話など受けて、なんだかあわただしく
昼へ、そこで次々に来客があって3時過ぎまで
昼食もとる時間がなかったので、ラーメンを作って食べようというときに
また来客2組 珈琲とパスタ。。
ラーメンを食べようというときだったので、まきちゃんにお願いしたかったけど
彼女は無理、丸亀にお買い物の追加をお願いして帰ってもらいました。
お腹はすいたの通り越し、眠い。
なにやってるんだ。私。
腰痛が・・。たちっぱなしなので腰が痛くなる。
朝食は食べる前に支度をしていたが、
島のかたも含めて食事の予約
3日に知人が大倉邸という民宿に滞在するので
食事の依頼を之電話など受けて、なんだかあわただしく
昼へ、そこで次々に来客があって3時過ぎまで
昼食もとる時間がなかったので、ラーメンを作って食べようというときに
また来客2組 珈琲とパスタ。。
ラーメンを食べようというときだったので、まきちゃんにお願いしたかったけど
彼女は無理、丸亀にお買い物の追加をお願いして帰ってもらいました。
お腹はすいたの通り越し、眠い。
なにやってるんだ。私。
タグ :本島笠島
2010年04月29日
連休
連休は5月5日まで休まず開廊します。
27日16時過ぎから本島へ入りました。この日は火曜日なので、溜まったギャラリーの仕事を
済ませておこうと、入ったのですが、「珈琲のませてくれる?」って
すぐ妹尾さんたちに見つかって?・・やっぱり仕事が進みません。
まあ、夜中にやろう・・ということで、あまり進みません(悩み)
翌日28日は、櫻井伸也さん(広島生まれ・現在イタリアトリノ在住)が、
帰国していて、アルテをたずねてくださいました。
彼とはアートフェア東京2010でもお隣のギャラリーから出展していたので、
4月に再会しました。ようこそ本島アルテへ。。
5月1日から金沢で展覧会がはじまるそうです。イタリアと日本で作品を発表されています。
6月ごろイタリアへ帰国予定とか。来年はヴェネチアビエンナーレがあるので、イタリアへ
行きたいです・・・。アートについていろいろ話し合いました。欧州も日本も厳しい状況のようです。
アジアは活気があります。アルテにも 台北、韓国、上海などの
アートフェアのお誘いをいただいていますが、今年は本島が忙しくなるので、参加は無理xですね。
*********
28日、岡さんが 新鮮なイカを6はいも持ってきてくださいました。
でも私は、いきたイカの処理など出来ません。。1はいだけ見本で
処理の仕方を教えてくださいましたが、勇気がなくて、そのままにしていました。
で・・夕方岡さんがお仕事が終わって尋ねてくださるまで櫻井君とワインを飲みつづけながら
雑誌取材の下見の方や丸亀市内の中学生と先生にパスタやランチをお出ししていました。
櫻井さんに手伝ってもらいながら。。
**************
29日は、香川+岡山の合同事業で、瀬戸大橋ウォーキングの人々300人が
いらっしゃっています。3班にわかれて本島を歩くのだそうです。お弁当持参の方なのですが
アルテにも作品鑑賞をかねて、カレーや珈琲を食していただきました。
喜んでくださるのでありがたいです。
春になり、様々な人々が訪れて居ます。
27日16時過ぎから本島へ入りました。この日は火曜日なので、溜まったギャラリーの仕事を
済ませておこうと、入ったのですが、「珈琲のませてくれる?」って
すぐ妹尾さんたちに見つかって?・・やっぱり仕事が進みません。
まあ、夜中にやろう・・ということで、あまり進みません(悩み)
翌日28日は、櫻井伸也さん(広島生まれ・現在イタリアトリノ在住)が、
帰国していて、アルテをたずねてくださいました。
彼とはアートフェア東京2010でもお隣のギャラリーから出展していたので、
4月に再会しました。ようこそ本島アルテへ。。
5月1日から金沢で展覧会がはじまるそうです。イタリアと日本で作品を発表されています。
6月ごろイタリアへ帰国予定とか。来年はヴェネチアビエンナーレがあるので、イタリアへ
行きたいです・・・。アートについていろいろ話し合いました。欧州も日本も厳しい状況のようです。
アジアは活気があります。アルテにも 台北、韓国、上海などの
アートフェアのお誘いをいただいていますが、今年は本島が忙しくなるので、参加は無理xですね。
*********
28日、岡さんが 新鮮なイカを6はいも持ってきてくださいました。
でも私は、いきたイカの処理など出来ません。。1はいだけ見本で
処理の仕方を教えてくださいましたが、勇気がなくて、そのままにしていました。
で・・夕方岡さんがお仕事が終わって尋ねてくださるまで櫻井君とワインを飲みつづけながら
雑誌取材の下見の方や丸亀市内の中学生と先生にパスタやランチをお出ししていました。
櫻井さんに手伝ってもらいながら。。
**************
29日は、香川+岡山の合同事業で、瀬戸大橋ウォーキングの人々300人が
いらっしゃっています。3班にわかれて本島を歩くのだそうです。お弁当持参の方なのですが
アルテにも作品鑑賞をかねて、カレーや珈琲を食していただきました。
喜んでくださるのでありがたいです。
春になり、様々な人々が訪れて居ます。
2010年04月23日
報告 アートフェア東京2010
笠島でまたお年寄りが一人亡くなり、本日は宇多津のベルモニーでお葬式を
するそうです。そのため、島の人はほとんど葬儀に参列するため
フェリーで出かけ、笠島はしーーーーんとしています。
*************
ギャラリーの仕事に専念しています。
ついでに、アートフェア東京の報告をしておきます。
アートフェアは内覧会4月1日。一般公開4月2日-4日まで
毎年、東京丸の内にある東京国際フォーラムで開催されます。
今年は国内外から140画廊が出展し、古美術から現代美術まで
様々な画廊が(扱い作家の)作品を紹介・販売する_国内では
規模が最大のフェアです。アルテは第二回から継続して出展しています。
大阪・京都からの出展はいくつかありますが、四国以西からはアルテのみ。
四国からだと、作品の輸送や期間中の滞在など、出展料に加えて経費が海外のフェアに
出展する感覚で必要になります。海外の場合はさらに、関税も考えなければなりません。
フェアに出展するには、作家との連携や意思の疎通も大切です。大変なものxです。
今年は3月31日から東京へ行き4月5日に戻ってきました。
31日は、リコシェの柳ケ瀬さんが、深川にあるそら庵さん、深川番所さんなどへ
案内してくださいまして、夜は深川ラボの白濱さんご夫妻も加わって、皆さんで
歓迎会というか、ご一緒に会食をしていただきました。
そら庵(1F)と深川番所(2F)は、深川にある古い印刷工場を再利用して活用していました。
イベントスペースやブックカフェ。朗読会、アコースティックライブ、自主映画会、トークイベントなど
のびやかで自由な場を作っていらっしゃいました。
アルテやアートフェアに出展するギャラリーとは、異なって、実にのびやかな印象でした。
アートフェアは昨年よりも初日から来場者は多かったのですが、
全般的に印象にのこるブースがなく、手堅くまとまった印象です。
ただ、来場数は昨年よりも5000人増の5万人とか。
購入するためというよりは、鑑賞のために来ている方が多く、
エンターテイメント化しているといっても良いでしょう。
これが日本のアートマーケットとしてのアートフェアかというもので
観客の態度、印象は大阪のアートフェアに酷似していると感じました。
ギャラリーそのもの、または作品を発表することその方法を
リストラする時期に来ているのだという実感を強くしました。
そういう意味でも本島へ移って良かったと確信を持ちました。
会場では、彦坂尚嘉さんと藏本秀彦さんの作品を持って行きました。
売り上げは良くなかったのですが、観客からの反応はとても良かったです。
他とは違いがあったようで、いい反応をいただきました。
本島や笠島地区にあるギャラリーということもアピール致しました。
確かに、離島に開いている画廊は、唯一でした。興味をもってくださった
方からは、ぜひ行きたいと。。今年は7月ごろ瀬戸内国際芸術祭があるので
香川に行くから、本島へも行きますよ。。
などなど、うきうきしたお声をかけていただきました。
楽しかったですよ。
するそうです。そのため、島の人はほとんど葬儀に参列するため
フェリーで出かけ、笠島はしーーーーんとしています。
*************
ギャラリーの仕事に専念しています。
ついでに、アートフェア東京の報告をしておきます。
アートフェアは内覧会4月1日。一般公開4月2日-4日まで
毎年、東京丸の内にある東京国際フォーラムで開催されます。
今年は国内外から140画廊が出展し、古美術から現代美術まで
様々な画廊が(扱い作家の)作品を紹介・販売する_国内では
規模が最大のフェアです。アルテは第二回から継続して出展しています。
大阪・京都からの出展はいくつかありますが、四国以西からはアルテのみ。
四国からだと、作品の輸送や期間中の滞在など、出展料に加えて経費が海外のフェアに
出展する感覚で必要になります。海外の場合はさらに、関税も考えなければなりません。
フェアに出展するには、作家との連携や意思の疎通も大切です。大変なものxです。
今年は3月31日から東京へ行き4月5日に戻ってきました。
31日は、リコシェの柳ケ瀬さんが、深川にあるそら庵さん、深川番所さんなどへ
案内してくださいまして、夜は深川ラボの白濱さんご夫妻も加わって、皆さんで
歓迎会というか、ご一緒に会食をしていただきました。
そら庵(1F)と深川番所(2F)は、深川にある古い印刷工場を再利用して活用していました。
イベントスペースやブックカフェ。朗読会、アコースティックライブ、自主映画会、トークイベントなど
のびやかで自由な場を作っていらっしゃいました。
アルテやアートフェアに出展するギャラリーとは、異なって、実にのびやかな印象でした。
アートフェアは昨年よりも初日から来場者は多かったのですが、
全般的に印象にのこるブースがなく、手堅くまとまった印象です。
ただ、来場数は昨年よりも5000人増の5万人とか。
購入するためというよりは、鑑賞のために来ている方が多く、
エンターテイメント化しているといっても良いでしょう。
これが日本のアートマーケットとしてのアートフェアかというもので
観客の態度、印象は大阪のアートフェアに酷似していると感じました。
ギャラリーそのもの、または作品を発表することその方法を
リストラする時期に来ているのだという実感を強くしました。
そういう意味でも本島へ移って良かったと確信を持ちました。
会場では、彦坂尚嘉さんと藏本秀彦さんの作品を持って行きました。
売り上げは良くなかったのですが、観客からの反応はとても良かったです。
他とは違いがあったようで、いい反応をいただきました。
本島や笠島地区にあるギャラリーということもアピール致しました。
確かに、離島に開いている画廊は、唯一でした。興味をもってくださった
方からは、ぜひ行きたいと。。今年は7月ごろ瀬戸内国際芸術祭があるので
香川に行くから、本島へも行きますよ。。
などなど、うきうきしたお声をかけていただきました。
楽しかったですよ。
2010年04月23日
離島のため
1)作品を輸送しようというとき島は運送業者がはいらない。
クロネコヤマトのみ、本島の業者で委託して配送しているが
150cmを超える作品は、輸送を受けてもらえない。
自力で搬入することになる。
2)島には、コンビにもスーパーもないから
当然、電気部品や工具類は手に入らない。
事前に綿密な計画が必要。
なんとかなると考えていると、大変な労力がかかってくる。
クロネコヤマトのみ、本島の業者で委託して配送しているが
150cmを超える作品は、輸送を受けてもらえない。
自力で搬入することになる。
2)島には、コンビにもスーパーもないから
当然、電気部品や工具類は手に入らない。
事前に綿密な計画が必要。
なんとかなると考えていると、大変な労力がかかってくる。
2010年04月21日
日本文化の形成 宮本常一
現場にしかないものがあるし、繰り返し調査をしないと見えてこないものがある。
只今、宮本常一氏による『日本文化の形成』を読んでいる。
宮本常一の最晩年の観文研での講義録と遺稿集から成る「日本文化の形成」は
未刊ではあるけれども、研究されてこられた思いが盛り込まれた到達点となる一書だ。
氏は広い調査、フィールドワークを積み重ね、民俗・民具資料についての深い造詣を持つ。
その人が文献に接したときに、どれほど豊かなものをそこから汲みとり、
またそれに触発されることによって、文献のみに閉じこもっている研究者には
到底思いつくことのできない、すぐれた新しい発想を展開する。
□人は古来より移動しつづけていたという点
さらに
この本では現在日本というひとつの国とみられているこの国が
かつては明らかに東北日本と西南日本で明らかに違う文化をもっていたことにも言及され、興味ふかい。
□海洋民としての倭人
文化はその技術のみで別の地域に伝わるのではなく、
その技術を有した人びととともに移動するという考えが氏の発想の根底にある。
大陸文化が海を越えるためには船を必要とするが、
大陸人は海に親しみがすくなく船の建造技術ももっていなかった。
そこで大陸と日本列島の文化の橋渡しを倭人が担う。
この倭人は縄文人の後裔ではなく、日本に稲作をもたらした南方の海洋民だろうと宮本さんはいう。
海洋民である南方民族の温かい気候での住居形態―高床式で、
壁をもたない柱のみの住居がその後の日本語の住宅となっていくという仮説。
温かい気候でこそ快適であった壁なしの住宅が、
日本の南方にくらべれば寒い気候でも移入されているという視点だ。
御簾や簾、蔀戸といった壁の代わりをなす間仕切りを用いる住居形態が、
南方の海洋民ゆずりとしている視点。
宮本常一の旅行日数約4000日、通過した町村3000、
足をとどめて話を聞いた箇所800、民家にとめてもらうことおよそ1000軒。
対象があり、対話の姿が示唆に富む。
現場にしかないものがあるし、繰り返し調査をしないと見えてこないものはある。
日本を形づくった『記憶の文化』をイメージしようとする人がどのくらいいるのだろう。
(網野善彦解説より引用)
近年の考古学の発掘成果によって、列島の社会はただ一方的に朝鮮半島・中国大陸の文化を受容してきただけでなく、済州島などを媒介として双方の間で活発な交流が展開しており、また西方からだけでなく、北方世界・南方世界との交流もまた「日本文化」にとって重要な意味を持っていたことが明らかにされつつあるが、宮本氏は早くもそれを見通し、これまでとは大きく異なる、まさしく海を通じての各地域の内外の交流の中で、「日本文化」をとらえようとしているのである。
それは列島の諸地域のそれぞれに形成された豊かな個性を明らかにする道をひらき、とかく大和、京都、あるいは鎌倉などの政治の中心から歴史を見がちだった日本史像、水田の開かれた地域を先進地域とし、山や海に関わる地域を頭から後進地域と見る日本社会像を根本的に修正する確固たる視点を築くことになっているが、これはくまなく列島の各地を歩いてきた宮本氏によってはじめてなしえたことといえよう。
只今、宮本常一氏による『日本文化の形成』を読んでいる。
宮本常一の最晩年の観文研での講義録と遺稿集から成る「日本文化の形成」は
未刊ではあるけれども、研究されてこられた思いが盛り込まれた到達点となる一書だ。
氏は広い調査、フィールドワークを積み重ね、民俗・民具資料についての深い造詣を持つ。
その人が文献に接したときに、どれほど豊かなものをそこから汲みとり、
またそれに触発されることによって、文献のみに閉じこもっている研究者には
到底思いつくことのできない、すぐれた新しい発想を展開する。
□人は古来より移動しつづけていたという点
さらに
この本では現在日本というひとつの国とみられているこの国が
かつては明らかに東北日本と西南日本で明らかに違う文化をもっていたことにも言及され、興味ふかい。
□海洋民としての倭人
文化はその技術のみで別の地域に伝わるのではなく、
その技術を有した人びととともに移動するという考えが氏の発想の根底にある。
大陸文化が海を越えるためには船を必要とするが、
大陸人は海に親しみがすくなく船の建造技術ももっていなかった。
そこで大陸と日本列島の文化の橋渡しを倭人が担う。
この倭人は縄文人の後裔ではなく、日本に稲作をもたらした南方の海洋民だろうと宮本さんはいう。
海洋民である南方民族の温かい気候での住居形態―高床式で、
壁をもたない柱のみの住居がその後の日本語の住宅となっていくという仮説。
温かい気候でこそ快適であった壁なしの住宅が、
日本の南方にくらべれば寒い気候でも移入されているという視点だ。
御簾や簾、蔀戸といった壁の代わりをなす間仕切りを用いる住居形態が、
南方の海洋民ゆずりとしている視点。
宮本常一の旅行日数約4000日、通過した町村3000、
足をとどめて話を聞いた箇所800、民家にとめてもらうことおよそ1000軒。
対象があり、対話の姿が示唆に富む。
現場にしかないものがあるし、繰り返し調査をしないと見えてこないものはある。
日本を形づくった『記憶の文化』をイメージしようとする人がどのくらいいるのだろう。
(網野善彦解説より引用)
近年の考古学の発掘成果によって、列島の社会はただ一方的に朝鮮半島・中国大陸の文化を受容してきただけでなく、済州島などを媒介として双方の間で活発な交流が展開しており、また西方からだけでなく、北方世界・南方世界との交流もまた「日本文化」にとって重要な意味を持っていたことが明らかにされつつあるが、宮本氏は早くもそれを見通し、これまでとは大きく異なる、まさしく海を通じての各地域の内外の交流の中で、「日本文化」をとらえようとしているのである。
それは列島の諸地域のそれぞれに形成された豊かな個性を明らかにする道をひらき、とかく大和、京都、あるいは鎌倉などの政治の中心から歴史を見がちだった日本史像、水田の開かれた地域を先進地域とし、山や海に関わる地域を頭から後進地域と見る日本社会像を根本的に修正する確固たる視点を築くことになっているが、これはくまなく列島の各地を歩いてきた宮本氏によってはじめてなしえたことといえよう。
タグ :本島笠島地区
2010年04月21日
大森南朋氏「UNCERTAIN(不確かなもの)」プロジェクト
大森南朋さんが、新たなプロジェクト開始。
大森さんが日々感じ、考えている事を形にして行くという内容だそうです。
その第一弾はB印 YOSHIDAさんと共同開発した台本カバー&台本ノート。
欠かせないモノである台本は、ドラマや舞台が終わる頃にはぼろぼろになってしまうもの。長い間使用するとても大切なものなのに、見た目も良く、機能的な気の利いたカバーは今迄あまり存在しないのではと思い、製作されたとか。
そしてノートは自分が映画を撮る時のアイデアやインスピレーションを書き留められる物として有ったら良いなと。
台本ノートという通常の台本にも使えるノートも発売。
詳しくは BEAMSサイトへ!!
B JIRUSHI YOSHIDAサイトも!!
いまや、美術以外の場所にアーティストはいるようだ。
大森さんが日々感じ、考えている事を形にして行くという内容だそうです。
その第一弾はB印 YOSHIDAさんと共同開発した台本カバー&台本ノート。
欠かせないモノである台本は、ドラマや舞台が終わる頃にはぼろぼろになってしまうもの。長い間使用するとても大切なものなのに、見た目も良く、機能的な気の利いたカバーは今迄あまり存在しないのではと思い、製作されたとか。
そしてノートは自分が映画を撮る時のアイデアやインスピレーションを書き留められる物として有ったら良いなと。
台本ノートという通常の台本にも使えるノートも発売。
詳しくは BEAMSサイトへ!!
B JIRUSHI YOSHIDAサイトも!!
いまや、美術以外の場所にアーティストはいるようだ。
タグ :本島笠島地区
2010年04月21日
笠島
4月7日から再び本島へ入っているが、
来客が多く、忙しさに追われている。
日々の売り上げや来場数を記録しているのだが
7日から11日までで100人を超えていた。
4月になってから、本島に滞在しているときは、
夕方も来客がままあって、丸亀でギャラリーを開いているときよりも
関わりが濃い。
ギャラリーだといちいち対応しなくても
ふらりと入って作品をながめて、黙って出て行くかたも
多く、対応しない場合が多いため、仕事に専念できるが
本島の場合は、和室のため。訪れた方は玄関で必ず
「ごめんください」と声がかかる。
そのため、全て対応することになる。
つまり100人以上のかたと対話することになる。
アートフェア東京2010の報告がまだ出来ていない。
また別の機会に・・。
今日はきがかりなことがあって、
仕事がすすまない。
今日水曜日から本島へ入った。
店につくとすぐに子猫がミャーと
向かいの家の塀から飛び出してきた。
やせている。東京から戻って気になっていたのだが
ますますやせている。
今日は、キャットフードを与えてもあまり食べない。
食欲がないようで、毛もつやがない。
一時は丸々としてきて、重くなって
ほっとしていたのに。。
日曜日よりもやせていたので、驚いた。
日曜日は私に甘えて、すぐ膝にのるので、
ずっと抱いていると、ごろごろと甘えていた。
今日も甘えてkるが、やせた原因がわからないので
抱いてやることが躊躇される。
ネットでいろいろ調べてみる。
病気かもしれないが。猫はデリケートな生き物だそうで
精神的なストレスでもやせるとか
月・火とお休みしているときは、隣の吉田さんが
見てくれるので、安心していたのだが
もしかして、私が見えなかったせい??と思ってみたりもする。
只今は、子猫と親猫が家の前の道路で
安心しきって、寝転んでいる。
栄養不足かな。
「病院へつれて行きたい」という私に
まきちゃんが「子猫は野良猫でもともと発育が悪い子だから
長生きできんよ。」という。
来客が多く、忙しさに追われている。
日々の売り上げや来場数を記録しているのだが
7日から11日までで100人を超えていた。
4月になってから、本島に滞在しているときは、
夕方も来客がままあって、丸亀でギャラリーを開いているときよりも
関わりが濃い。
ギャラリーだといちいち対応しなくても
ふらりと入って作品をながめて、黙って出て行くかたも
多く、対応しない場合が多いため、仕事に専念できるが
本島の場合は、和室のため。訪れた方は玄関で必ず
「ごめんください」と声がかかる。
そのため、全て対応することになる。
つまり100人以上のかたと対話することになる。
アートフェア東京2010の報告がまだ出来ていない。
また別の機会に・・。
今日はきがかりなことがあって、
仕事がすすまない。
今日水曜日から本島へ入った。
店につくとすぐに子猫がミャーと
向かいの家の塀から飛び出してきた。
やせている。東京から戻って気になっていたのだが
ますますやせている。
今日は、キャットフードを与えてもあまり食べない。
食欲がないようで、毛もつやがない。
一時は丸々としてきて、重くなって
ほっとしていたのに。。
日曜日よりもやせていたので、驚いた。
日曜日は私に甘えて、すぐ膝にのるので、
ずっと抱いていると、ごろごろと甘えていた。
今日も甘えてkるが、やせた原因がわからないので
抱いてやることが躊躇される。
ネットでいろいろ調べてみる。
病気かもしれないが。猫はデリケートな生き物だそうで
精神的なストレスでもやせるとか
月・火とお休みしているときは、隣の吉田さんが
見てくれるので、安心していたのだが
もしかして、私が見えなかったせい??と思ってみたりもする。
只今は、子猫と親猫が家の前の道路で
安心しきって、寝転んでいる。
栄養不足かな。
「病院へつれて行きたい」という私に
まきちゃんが「子猫は野良猫でもともと発育が悪い子だから
長生きできんよ。」という。
タグ :本島笠島地区
2010年04月17日
本島御大師巡拝
今朝は6時に起床。
まきちゃんが泊港まで自転車を取りに行っている間に身支度。
玄関にでると子猫が「朝ごはん~」とばかりにみゃーと近寄ってくるのを
尻目に専称寺へ、子猫まっててね。
安田さんがお友達とオンバをおして、「長徳院へいくの。昨日手伝えなかったから
愛ちゃんが怒っていてね。気にせんことよ。」といながら
途中のお接待の場所を案内してくれる。
私は早朝の朝日をあびながら・ホトトギスの鳴き声聞きながら
まずは、お参り、パンのお接待をうける。
帰り道の専称寺の階段を登って、お参り。
朝一番のフェリーで訪れた人々の続々とした群れをみて
感動というか、びっくり。。
その後、アルテに戻って、子猫に朝ごはんを与え、まきちゃんを待つ。
まきちゃんと長徳院へまめご飯のお接待をうけるため、自転車で走る。
その後甲生の東光寺へ。梅谷さんだ という声が聞こえて
大きなお赤飯をいただく。
私は店に戻り、まきちゃんは撮影をしてくると行って出かける。
今日はお接待があるので、食事の用意はいいかなと思いつつ
猫の相手をしているとお接待で赤飯もらっているのに「何か食べさせて」と人がドドドっと・・・
ふぅ・・野良猫まきちゃんは戻ってこない、
一人で応戦孤軍奮闘一応勝利かな食べさせてあげれたし。
食材なくなる。
疲労。お腹すいた。結局朝お接待の小さな赤飯パックのみ
炊き込むピラフの最後の一食まで完売。
まきちゃんが泊港まで自転車を取りに行っている間に身支度。
玄関にでると子猫が「朝ごはん~」とばかりにみゃーと近寄ってくるのを
尻目に専称寺へ、子猫まっててね。
安田さんがお友達とオンバをおして、「長徳院へいくの。昨日手伝えなかったから
愛ちゃんが怒っていてね。気にせんことよ。」といながら
途中のお接待の場所を案内してくれる。
私は早朝の朝日をあびながら・ホトトギスの鳴き声聞きながら
まずは、お参り、パンのお接待をうける。
帰り道の専称寺の階段を登って、お参り。
朝一番のフェリーで訪れた人々の続々とした群れをみて
感動というか、びっくり。。
その後、アルテに戻って、子猫に朝ごはんを与え、まきちゃんを待つ。
まきちゃんと長徳院へまめご飯のお接待をうけるため、自転車で走る。
その後甲生の東光寺へ。梅谷さんだ という声が聞こえて
大きなお赤飯をいただく。
私は店に戻り、まきちゃんは撮影をしてくると行って出かける。
今日はお接待があるので、食事の用意はいいかなと思いつつ
猫の相手をしているとお接待で赤飯もらっているのに「何か食べさせて」と人がドドドっと・・・
ふぅ・・野良猫まきちゃんは戻ってこない、
一人で応戦孤軍奮闘一応勝利かな食べさせてあげれたし。
食材なくなる。
疲労。お腹すいた。結局朝お接待の小さな赤飯パックのみ
炊き込むピラフの最後の一食まで完売。
2010年04月16日
食堂として喜ばれる日々
木曜日から本島入り
ギャラリーの仕事に滞りがあるため、5時以降は玄関の木戸を閉めていた。
岡さんと妹尾さんは夕方珈琲をのみにきたのだけど
閉っていたので、忙しいのだろうと帰ったのだそうだ。
昨日は、6時過ぎに裏口をたたく音がして、驚いて窓を開くと
安田のおばあちゃんが、「今夜はもうなにもつくらないの?」
私「自分も食べなきゃいけないから、なにかつくりましょう。いま表を開けますね。」
打ち込みうどんをつくりました。
そして、今日金曜日、まあなんとなく用意しておくかと
ポークビーンズ と じゃがいもを細くきって、ハッシュポテトをつくった。
11:00頃予約の電話
支度しておいて良かった。。
妹尾さんがなにかあるかな・・?
今日は雨昼間のランチはこれでオシマイ。
残りを昼に到着したまきちゃんと私で食した。
5時前に、安田さんが、「亡くなったおじいさんのかたづけしていて
遅くなってしまって、つかれたから今夜食べにきてもいいかな?」
私「いいですよ。用意しますから6時ごろきてくださいな。」
そこで、また仕度をする。
炊き込みピラフをつくりたくなって、下ごしらえをして炊飯器に仕掛ける。
まきちゃんは、どこへいったのいか・・・
安田さんが来て待っていてもらっていると
妹尾さん、岡さんが 「掃除して疲れたのでお腹すいたデス。
なんでもいいから、もらえる?」
私「ピラフいま炊き上がったので、それでもいい?」
ねぎと榎のすまし汁も加えてお出しすると
まあ 綺麗!とうれしそうな笑顔がうれしい。
喜んでもらえることは、私を幸せにしてくれる。
安田さんは、先日ご主人を亡くしたばかり、まだ夜一人で食事するのが、さびしくなるからじゃないかな?
お話をしていて、ふとそんな気がした。
妹尾さんも岡さんも一人暮らし。
ここが、あったかい場所になれればそれは素敵なことだと思う。。
今夜もなんとなく、ふかふかした夜を過ごせています。
ギャラリーの仕事に滞りがあるため、5時以降は玄関の木戸を閉めていた。
岡さんと妹尾さんは夕方珈琲をのみにきたのだけど
閉っていたので、忙しいのだろうと帰ったのだそうだ。
昨日は、6時過ぎに裏口をたたく音がして、驚いて窓を開くと
安田のおばあちゃんが、「今夜はもうなにもつくらないの?」
私「自分も食べなきゃいけないから、なにかつくりましょう。いま表を開けますね。」
打ち込みうどんをつくりました。
そして、今日金曜日、まあなんとなく用意しておくかと
ポークビーンズ と じゃがいもを細くきって、ハッシュポテトをつくった。
11:00頃予約の電話
支度しておいて良かった。。
妹尾さんがなにかあるかな・・?
今日は雨昼間のランチはこれでオシマイ。
残りを昼に到着したまきちゃんと私で食した。
5時前に、安田さんが、「亡くなったおじいさんのかたづけしていて
遅くなってしまって、つかれたから今夜食べにきてもいいかな?」
私「いいですよ。用意しますから6時ごろきてくださいな。」
そこで、また仕度をする。
炊き込みピラフをつくりたくなって、下ごしらえをして炊飯器に仕掛ける。
まきちゃんは、どこへいったのいか・・・
安田さんが来て待っていてもらっていると
妹尾さん、岡さんが 「掃除して疲れたのでお腹すいたデス。
なんでもいいから、もらえる?」
私「ピラフいま炊き上がったので、それでもいい?」
ねぎと榎のすまし汁も加えてお出しすると
まあ 綺麗!とうれしそうな笑顔がうれしい。
喜んでもらえることは、私を幸せにしてくれる。
安田さんは、先日ご主人を亡くしたばかり、まだ夜一人で食事するのが、さびしくなるからじゃないかな?
お話をしていて、ふとそんな気がした。
妹尾さんも岡さんも一人暮らし。
ここが、あったかい場所になれればそれは素敵なことだと思う。。
今夜もなんとなく、ふかふかした夜を過ごせています。
2010年04月16日
おひとり様のたび
笠島地区には、江戸時代の建物にとまれる民宿「大倉邸」がある。
口コミで訪れる人があって、リピーターもある。
一組限定で、宿泊のみで自炊。
2名から1人4000円 3名から7名までは3000円
8名以上15名までは2000円となる。
近頃は一人旅のかたも多く、大倉邸は規定が2名からのため
受け入れを行っていない。
おひとり様の旅が増えている今、もう少し柔軟な対応はできないものだろうか。
自炊と言ってもコンビニや市場がない本島の場合、
食材から調味料まで持ち込ぶので、かなり大荷物となる。
このあたりも、宿泊の申し込みを受けてから、希望者にはチェックリストを
用意しておいて、必要な食材や調味料を用意してあげるサービスがあればありがたい。
私たちも以前は、大倉邸に泊ったこともあって、こういうサービスがあればありがたいと
感じたことである。
ニーズがあるのだから、惜しいと思う。
丸亀市から業務委託を受けて行っている民宿事業だ。
行政が関るとどうしてこうも、愛想が悪くなるのだろう。
口コミで訪れる人があって、リピーターもある。
一組限定で、宿泊のみで自炊。
2名から1人4000円 3名から7名までは3000円
8名以上15名までは2000円となる。
近頃は一人旅のかたも多く、大倉邸は規定が2名からのため
受け入れを行っていない。
おひとり様の旅が増えている今、もう少し柔軟な対応はできないものだろうか。
自炊と言ってもコンビニや市場がない本島の場合、
食材から調味料まで持ち込ぶので、かなり大荷物となる。
このあたりも、宿泊の申し込みを受けてから、希望者にはチェックリストを
用意しておいて、必要な食材や調味料を用意してあげるサービスがあればありがたい。
私たちも以前は、大倉邸に泊ったこともあって、こういうサービスがあればありがたいと
感じたことである。
ニーズがあるのだから、惜しいと思う。
丸亀市から業務委託を受けて行っている民宿事業だ。
行政が関るとどうしてこうも、愛想が悪くなるのだろう。
2010年04月11日
今日はこれから
東所通路の区長さんが、「長徳寺の法要が3時からあるので一緒に行こう」と
声をかけてくださったので、行ってまいります。
長徳寺は、平安時代の長徳年間(西暦995~998)の開基と言われ、壱千年余の歴史があるお寺です。
モッコクの木は樹齢450年。多くの文化財が遺されています。
本尊は、阿弥陀如来像(平安時代 市重要文化財)
ヒノキの寄木造りで、平安の名僧"恵心僧都”の作といわれています。
像高35.8cmの小像ながら肉髻は高く、螺髪は小さく並び、脹よかな顔、美しい衣紋の流れなど
典型的な藤原時代の優作である。
天文在銘の絵瓦・文字瓦(戦国時代 市重要文化財)
かつて、本堂の屋根に葺いてあった絵瓦17枚(左)並びに文字瓦(右)19枚。
天文14年(1545)に入江源七良等によって寄進されたものである。
モッコク(県指定 ふるさとの名木)
樹齢約500年、幹の周囲3.5m、枝は約2アールの地をおおう珍しい樹形の大木である。
モッコクは本来、ヒノキ、スギなどの如く高木であるので、横に広がった樹形は全国的にも極めて珍しい。
平成16年8月の16号台風で枝に被害が発生。急遽、県樹木医の指導の下、枝を保護するための支柱を立てた。
八臂辨財天(平安時代)
屋島の戦いに敗れた平家の落ち武者が、九州に逃れる途中、本島に隠れ住み、その子孫が代々奉安・帰依していた仏様です。
特に商売繁盛、縁結び、交通安全、息災延命の守り本尊として、京阪神方面まで汎く信仰を集めております。
香川県にあって、香川の人が案外と価値を知らない。
香川の人々へ情報が発信されていなかったように思う。
もったいない。
声をかけてくださったので、行ってまいります。
長徳寺は、平安時代の長徳年間(西暦995~998)の開基と言われ、壱千年余の歴史があるお寺です。
モッコクの木は樹齢450年。多くの文化財が遺されています。
本尊は、阿弥陀如来像(平安時代 市重要文化財)
ヒノキの寄木造りで、平安の名僧"恵心僧都”の作といわれています。
像高35.8cmの小像ながら肉髻は高く、螺髪は小さく並び、脹よかな顔、美しい衣紋の流れなど
典型的な藤原時代の優作である。
天文在銘の絵瓦・文字瓦(戦国時代 市重要文化財)
かつて、本堂の屋根に葺いてあった絵瓦17枚(左)並びに文字瓦(右)19枚。
天文14年(1545)に入江源七良等によって寄進されたものである。
モッコク(県指定 ふるさとの名木)
樹齢約500年、幹の周囲3.5m、枝は約2アールの地をおおう珍しい樹形の大木である。
モッコクは本来、ヒノキ、スギなどの如く高木であるので、横に広がった樹形は全国的にも極めて珍しい。
平成16年8月の16号台風で枝に被害が発生。急遽、県樹木医の指導の下、枝を保護するための支柱を立てた。
八臂辨財天(平安時代)
屋島の戦いに敗れた平家の落ち武者が、九州に逃れる途中、本島に隠れ住み、その子孫が代々奉安・帰依していた仏様です。
特に商売繁盛、縁結び、交通安全、息災延命の守り本尊として、京阪神方面まで汎く信仰を集めております。
香川県にあって、香川の人が案外と価値を知らない。
香川の人々へ情報が発信されていなかったように思う。
もったいない。
2010年04月10日
募集
旧暦3月4日 4月17日は お大師参りのお接待が行われます。
瀬戸内海に浮かぶ丸亀市の本島を会場に行われる伝統的な行事です。
島内外からお遍路さんが訪れて島内にある33の寺やお堂を巡り、島の人たちがお茶やお菓子などでお遍路さんを接待します。
高齢化しているため、笠島地区の方から
お手伝いいただける方を募集しています。
16日から入って17日 5時くらいまで
おもてなしのお接待ボランティア数名ほど緊急募集です。
ご参加いただけるかたは、アルテまでメールかお電話でご連絡ください。
締め切り 4月14日まで
電話 0877-57-8255 または 0877-27-3607
090-1855-8438
メール arte@mti.biglobe.ne.jp
開催場所 香川県丸亀市 本島町内一円
瀬戸内海に浮かぶ丸亀市の本島を会場に行われる伝統的な行事です。
島内外からお遍路さんが訪れて島内にある33の寺やお堂を巡り、島の人たちがお茶やお菓子などでお遍路さんを接待します。
高齢化しているため、笠島地区の方から
お手伝いいただける方を募集しています。
16日から入って17日 5時くらいまで
おもてなしのお接待ボランティア数名ほど緊急募集です。
ご参加いただけるかたは、アルテまでメールかお電話でご連絡ください。
締め切り 4月14日まで
電話 0877-57-8255 または 0877-27-3607
090-1855-8438
メール arte@mti.biglobe.ne.jp
開催場所 香川県丸亀市 本島町内一円
2010年04月09日
春野菜の植え付け
アルテの山手専称寺の櫻が満開です。
今日はなんとなくシーンとしていました。
JAから注文していた春野菜の苗や種を届く日だったので
笠島の住民のみなさん 畑に・・。
高島さんがどうするか?トマトや胡瓜や夏野菜を育てるなら
今が植えつけ時期じゃ・・・
野菜は毎日おはようと声をかけにゃいかんぞ!と教えてくださいました。
アーティストがトマト畑やかぼちゃ畑を持つのは面白いのですが
育てるという作業がありますからね。
いただいたほうれんそうを洗っていると
野菜の葉のつき方とかはじめて知ることが多いのです。
スーパーではそういうことは体感できませんね。
くらしの背景ががたがたに崩れているのは、
私たちの暮らしに奥行きや広がりを失っているためでしょう。
ものの誕生した背景には理由があって、
それがある社会には醜いものはなかったということを伺いました。
美しいものが探しても見つからなくなっています。
2010年04月07日
4月7日
ひとまず4月恒例のアートフェア東京が終わり、5日やっと丸亀に戻り
今日から本島に入りました。
櫻のトンネルをくぐって笠島へ
ムスカリが咲いていたところは、今は白いすずらんが可憐に咲いている。
作品配送とか、経費の精算とか
まだまだアートフェアの仕事は終わりませんが、さあ新しいことがはじまります。
今年後半から本島で展開する「食とアート」のアーティストインレジデンスに応募された
資料が届いていたので、只今は目を通している。
+++++++++++++++++++++++++
こんにちは!
お帰り!
しばらく休んどったな!
おう!今日は?泊るんか?なんじゃまきちゃんもきとるんか!
などと口々に笠島の人々が尋ねてくださる。
岡さんが、夕方仕事帰りに「梅谷さんもう仕事するのいや?」といいながら
摘みたてのわらびを持ってきてくださる。
勝手口をどんどんたたく音で、ドアを開くと
高島さんが、青々としたりっぱに成長したほうれんそうを一抱えも持って立っていた。
「もう今年はこれでしまいじゃ・・」
夕方、菊菜も持ってきてくださった。
猫はたぶん私のことは忘れているだろうと思うと
くろちゃんととらちゃんが みゃーといって駆け寄ってくる。
とらちゃんは、白い毛がグレーになっている。
それでスリスリ足に顔を押し付けて、甘えている。
抱き上げると重くなっていて、あれほど貧相だった子猫がやっと
まともになっていた。まだ体は小ぶりだが、もう大人になっているのに
足が小さい、子猫のときに栄養状態が悪くて死相がでていた子だから
でも、健康そうになっていた。私が留守のときに、お隣の吉田さんが
ドッグフードを与えてくださっていたからだ・・。
玄関に出るとどこからともなく
二匹が駆け寄ってきて、遊ぼうと私を誘う。。
猫と戯れていると、安田さんが、「今日の夜はなんかつくるの?」と
私が 「そうね、鶏の手元とジャガイモのさっぱり煮でもつくろうかな」というと
じゃあ 食べに来るね
岡さんも私もいいかな
そこでアートフェアの事後処理の仕事の合間に
お米を仕掛け、惣菜をつくる。まきちゃんもホウレンソウを洗って
下ごしらえを手伝ってくれる。
林哲夫展のあとなので、展示していた作品をかけかえ
これからのギャラリースペースの改装をいろいろ検討する。
これからの展覧会の準備もあるので、いい緊張感で
久しぶりに今夜はくつろぐ。
今日から本島に入りました。
櫻のトンネルをくぐって笠島へ
ムスカリが咲いていたところは、今は白いすずらんが可憐に咲いている。
作品配送とか、経費の精算とか
まだまだアートフェアの仕事は終わりませんが、さあ新しいことがはじまります。
今年後半から本島で展開する「食とアート」のアーティストインレジデンスに応募された
資料が届いていたので、只今は目を通している。
+++++++++++++++++++++++++
こんにちは!
お帰り!
しばらく休んどったな!
おう!今日は?泊るんか?なんじゃまきちゃんもきとるんか!
などと口々に笠島の人々が尋ねてくださる。
岡さんが、夕方仕事帰りに「梅谷さんもう仕事するのいや?」といいながら
摘みたてのわらびを持ってきてくださる。
勝手口をどんどんたたく音で、ドアを開くと
高島さんが、青々としたりっぱに成長したほうれんそうを一抱えも持って立っていた。
「もう今年はこれでしまいじゃ・・」
夕方、菊菜も持ってきてくださった。
猫はたぶん私のことは忘れているだろうと思うと
くろちゃんととらちゃんが みゃーといって駆け寄ってくる。
とらちゃんは、白い毛がグレーになっている。
それでスリスリ足に顔を押し付けて、甘えている。
抱き上げると重くなっていて、あれほど貧相だった子猫がやっと
まともになっていた。まだ体は小ぶりだが、もう大人になっているのに
足が小さい、子猫のときに栄養状態が悪くて死相がでていた子だから
でも、健康そうになっていた。私が留守のときに、お隣の吉田さんが
ドッグフードを与えてくださっていたからだ・・。
玄関に出るとどこからともなく
二匹が駆け寄ってきて、遊ぼうと私を誘う。。
猫と戯れていると、安田さんが、「今日の夜はなんかつくるの?」と
私が 「そうね、鶏の手元とジャガイモのさっぱり煮でもつくろうかな」というと
じゃあ 食べに来るね
岡さんも私もいいかな
そこでアートフェアの事後処理の仕事の合間に
お米を仕掛け、惣菜をつくる。まきちゃんもホウレンソウを洗って
下ごしらえを手伝ってくれる。
林哲夫展のあとなので、展示していた作品をかけかえ
これからのギャラリースペースの改装をいろいろ検討する。
これからの展覧会の準備もあるので、いい緊張感で
久しぶりに今夜はくつろぐ。
2010年03月28日
2010年03月25日
27日(土)は
本島フォタリング・・・フォト+自転車 でぐるっと本島を探検しようという趣旨のメンバーが
アルテにもお立ち寄りいただくことになっています。
そこで16食分のお弁当ををつくることになりました。
妹尾さん 岡さんが それならばと
初物のたけのこ わらびを採ってきてくださいました。
そのうえ 蕨のあく抜きをしたことがない私に
「島のばあちゃんが 教えてやるっ!」と夕方灰をもってきてくださって
岡さん 妹尾さん 手取足取り 指導してくださった。
筍 蕨 わけぎ 紫芋
全て食材は本島地産です。
ほんとに いつもありがとう。
島の食材を食べてさせてあげてって 伝言です。
私は どう感謝を示すことができるのだろう。。
まきちゃんは 明日いろいろ運んで来てくれます。
どうして この人々は 私のことを わかっているんだろう。。
本能だね。このやさしさは・・。
アルテにもお立ち寄りいただくことになっています。
そこで16食分のお弁当ををつくることになりました。
妹尾さん 岡さんが それならばと
初物のたけのこ わらびを採ってきてくださいました。
そのうえ 蕨のあく抜きをしたことがない私に
「島のばあちゃんが 教えてやるっ!」と夕方灰をもってきてくださって
岡さん 妹尾さん 手取足取り 指導してくださった。
筍 蕨 わけぎ 紫芋
全て食材は本島地産です。
ほんとに いつもありがとう。
島の食材を食べてさせてあげてって 伝言です。
私は どう感謝を示すことができるのだろう。。
まきちゃんは 明日いろいろ運んで来てくれます。
どうして この人々は 私のことを わかっているんだろう。。
本能だね。このやさしさは・・。
2010年03月22日
県外からのお客様 多数
昨日は本島ハーフマラソンも開催されていて
アルテの前の道を走るので 笠島の住人も旗をもって
応援していました。
アルテには早朝から 県外(東京ガ多かった)からのお客様が覗いてくださいます。
ですから、きてくださいと、東京方面からの方には
アートフェア東京のチケット かなりさし上げました。
今日22日も玄関で朝9時くらいに子猫にえさをやっていたら、
朝になると えさえさとって 子猫と親猫がやってくるのです。
ですから えさ~といって やってきたら
高知からカメラをもった方が 食事できますか?と
急いでトマトバジルのパスタを作ってお出ししました。
今日は冷えます。花冷えですね。
アルテの前の道を走るので 笠島の住人も旗をもって
応援していました。
アルテには早朝から 県外(東京ガ多かった)からのお客様が覗いてくださいます。
ですから、きてくださいと、東京方面からの方には
アートフェア東京のチケット かなりさし上げました。
今日22日も玄関で朝9時くらいに子猫にえさをやっていたら、
朝になると えさえさとって 子猫と親猫がやってくるのです。
ですから えさ~といって やってきたら
高知からカメラをもった方が 食事できますか?と
急いでトマトバジルのパスタを作ってお出ししました。
今日は冷えます。花冷えですね。
2010年03月20日
新しい住人
笠島保存地区に入るには、山道からがお勧め。
海沿いの道は、近年自動車道として整備されたもの。
昔ながらの道をたどって、笠島に入って欲しい。風情があるから。
山根を通り過ぎ、小さな峠を越える、すぐに保存地区の黒壁が眼下に広がる・・・。
+++++++++++++++++
東小路 このところ、笠島に新しい住人が増えている。もともとこの地区の人だが、県外で暮らしてきた人が
定年後、笠島に戻ってきているようだ。自治会長に良かったですね。とつげる。
おう そうなんよ。もともと笠島の出で、戻ってきよる。
笠島出身の人は、家もあるから、戻りやすい。空き家はあるが、所有者があるから、
案外 新たな住民がここに住居を得るのは難しい。
アルテは、4年前の文化活動がきっかけ。そして ユーラシア旅行社の取材によって
新たな関りが生まれ、今の展開になっている。
昨日は、また新しい住人となる方が、挨拶に来られた。
かつて(先代の時代に)手放された家を、買い戻されて、この町に暮らすため
越して来られた。アルテのある東小路の通 3軒めのお隣離さんになる。
つくづく感じるが、地域の人々は お互いを知っている。よく知っている。
もちろん気の合う人 合わない人もあるだろうが、でもお互いに助け合って暮らしている。
くらしそのものの広がりと深さが背後にしっかりとある。それが私がみた笠島の現在。
でもお年よりはさびしいといった。
今朝子猫のお腹の毛があまりに汚れているので
表の道路で石鹸の泡で洗っていた。オンバを押しながら おばあちゃんが
「まあ あんた(子猫)はええねぇ やししくしてもろて・・」
と話しかけてきた。
「夕べはとまっとったんか?町の人が一人で さみしゅうないか?」と
私「ううん 静かでいいよ」と応えると
私は夜一人でいると さみしゅうて さみしゅうて・・」といった。
そうだよね。さみしいのか 寂しかったら、遊びに来てね。
といって別れた。
海沿いの道は、近年自動車道として整備されたもの。
昔ながらの道をたどって、笠島に入って欲しい。風情があるから。
山根を通り過ぎ、小さな峠を越える、すぐに保存地区の黒壁が眼下に広がる・・・。
+++++++++++++++++
東小路 このところ、笠島に新しい住人が増えている。もともとこの地区の人だが、県外で暮らしてきた人が
定年後、笠島に戻ってきているようだ。自治会長に良かったですね。とつげる。
おう そうなんよ。もともと笠島の出で、戻ってきよる。
笠島出身の人は、家もあるから、戻りやすい。空き家はあるが、所有者があるから、
案外 新たな住民がここに住居を得るのは難しい。
アルテは、4年前の文化活動がきっかけ。そして ユーラシア旅行社の取材によって
新たな関りが生まれ、今の展開になっている。
昨日は、また新しい住人となる方が、挨拶に来られた。
かつて(先代の時代に)手放された家を、買い戻されて、この町に暮らすため
越して来られた。アルテのある東小路の通 3軒めのお隣離さんになる。
つくづく感じるが、地域の人々は お互いを知っている。よく知っている。
もちろん気の合う人 合わない人もあるだろうが、でもお互いに助け合って暮らしている。
くらしそのものの広がりと深さが背後にしっかりとある。それが私がみた笠島の現在。
でもお年よりはさびしいといった。
今朝子猫のお腹の毛があまりに汚れているので
表の道路で石鹸の泡で洗っていた。オンバを押しながら おばあちゃんが
「まあ あんた(子猫)はええねぇ やししくしてもろて・・」
と話しかけてきた。
「夕べはとまっとったんか?町の人が一人で さみしゅうないか?」と
私「ううん 静かでいいよ」と応えると
私は夜一人でいると さみしゅうて さみしゅうて・・」といった。
そうだよね。さみしいのか 寂しかったら、遊びに来てね。
といって別れた。
2010年03月19日
島には山がある
山は 放置されていて、竹林が多い。
この竹が問題だそうだ。竹が広がると、山の植生が単一化され、
そして微生物・虫・動物など生態系が単一化される。
竹の地下茎は明るいところや養分が行き渡った畑などの土壌に向かって
1年間に6~8mも伸びて行く。竹林が広がると、針葉樹と竹は浅く根がはるので
養分の取りあいになって、枯れる。
広葉樹でも樹齢が若いもの・竹より低い樹木は
日照不足がおこり、やがて枯れる。
竹林の放置化が進むと、地下茎が死に、地下茎から生えている「ヒゲ根」が無くなる。
地下茎は浅く広がるので、土砂崩れもおきやすくなる。
自然は、人が手をかけることで、保たれていた。
人々が地方を捨てて都市に向かうと、地方の自然は荒廃が進む。
都市だけで日本は成り立たない。
都市は地方を食べ続けている。地方に生まれた人も都市へ向かい、
ともに故郷を食べている。
この竹が問題だそうだ。竹が広がると、山の植生が単一化され、
そして微生物・虫・動物など生態系が単一化される。
竹の地下茎は明るいところや養分が行き渡った畑などの土壌に向かって
1年間に6~8mも伸びて行く。竹林が広がると、針葉樹と竹は浅く根がはるので
養分の取りあいになって、枯れる。
広葉樹でも樹齢が若いもの・竹より低い樹木は
日照不足がおこり、やがて枯れる。
竹林の放置化が進むと、地下茎が死に、地下茎から生えている「ヒゲ根」が無くなる。
地下茎は浅く広がるので、土砂崩れもおきやすくなる。
自然は、人が手をかけることで、保たれていた。
人々が地方を捨てて都市に向かうと、地方の自然は荒廃が進む。
都市だけで日本は成り立たない。
都市は地方を食べ続けている。地方に生まれた人も都市へ向かい、
ともに故郷を食べている。
2010年03月19日
笠島の街道にムスカリがいっぱい自生
春です。俄に島は、とりどりの花の色彩で、鮮やかな景色です。
冬の時期は水仙街道だったところが、いまはムスカリがあちらこちらに
紫のかわいい花を咲かせています。
ムスカリは多年草。季節を知らせてくれます。
櫻はまだつぼみは固くて、4月には櫻のトンネルをくぐって
保存地区へ迎うことが出来るでしょう。わくわくします。
昨日も雨混じりながら、小グループのお客様がたずねてくださって、
いただいた野菜でまたわけぎ和えのお弁当をなどをつくりました。
いい感じ。。
アートフェア東京2010の準備もあって、ちょっと緊張しています。
2月29日から4月6日までは私は不在です。
でもお留守番のまきちゃんが、土日はお食事をつくるそうです。
お手伝いしていただける方、ご連絡ください。
お風呂も快適に入れるようになりましたから、お泊りしてもいいですよ。
但し、自分の食べるものか材料はまきちゃんと相談して、持参してください。
宜しくお願いします。
冬の時期は水仙街道だったところが、いまはムスカリがあちらこちらに
紫のかわいい花を咲かせています。
ムスカリは多年草。季節を知らせてくれます。
櫻はまだつぼみは固くて、4月には櫻のトンネルをくぐって
保存地区へ迎うことが出来るでしょう。わくわくします。
昨日も雨混じりながら、小グループのお客様がたずねてくださって、
いただいた野菜でまたわけぎ和えのお弁当をなどをつくりました。
いい感じ。。
アートフェア東京2010の準備もあって、ちょっと緊張しています。
2月29日から4月6日までは私は不在です。
でもお留守番のまきちゃんが、土日はお食事をつくるそうです。
お手伝いしていただける方、ご連絡ください。
お風呂も快適に入れるようになりましたから、お泊りしてもいいですよ。
但し、自分の食べるものか材料はまきちゃんと相談して、持参してください。
宜しくお願いします。
2010年03月17日
お年寄りの一人暮らし
笠島は、お年寄りが一人で暮らしている人が多い。
昨日火曜日はギャラリーは休みの日だったが、溜まった仕事をしなければと
16:30の高速艇で本島へ来た。今日は休みだから、締めておいて仕事仕事・・
と思っていたのだが、入り口の障子は締めて、木の引き戸は半開きにしていた。
自転車をとめていたので、妹尾さんがお散歩の途中で気がついて
「来ていたの」とたずねてくださった。到着してから1時間以内に
その後 安田さんが、「なんか食べるものあるかな・・」と
「カレーでもええよ。お祖父さんが亡くなったから、私ひとりだからね。
畑 しよったから、何でもいいよ」と
私「大豆カレーならできるよ。今から仕掛けるから、少し待っていて・・くださいな」
お米を研いで、麦をいれて、麦ご飯にして仕掛けて、ストックしていたカレーにたまねぎ 大豆を加えて
ストーブにかけて、煮込む。(プロパンガスの節約)
仕事をしたくて来たのだから、断る言葉が出そうになって、でも断ることができなかった。
需要があるということ、一人でも・・苦笑い。
*******************
安田さんのご主人は、1週間前に亡くなった。85歳だった。
安田さんは、40年神戸に暮らしていて、退職後笠島に戻ってきた。震災の1年前だったそうだ。
安田さんは、ご主人のことを「お父さん」という。お父さんが元気なとき、カレーを何度か自宅へ届けた。
このごろは、「お父さんの具合が悪くて だから、食べられないんよ」と話していた。
ずーっと 介護して、そして亡くなった。
「もう 年だったからね。」といいながら、カレーを食べてくださった。
妹尾さんも一人、吉田さんも一人。高島さんも一人、高島昭夫さんも一人、・・・さんも、・・さんも
淡々と 暮らしている。凄いと思った。
まだ、私は出来そうにない。
昨日火曜日はギャラリーは休みの日だったが、溜まった仕事をしなければと
16:30の高速艇で本島へ来た。今日は休みだから、締めておいて仕事仕事・・
と思っていたのだが、入り口の障子は締めて、木の引き戸は半開きにしていた。
自転車をとめていたので、妹尾さんがお散歩の途中で気がついて
「来ていたの」とたずねてくださった。到着してから1時間以内に
その後 安田さんが、「なんか食べるものあるかな・・」と
「カレーでもええよ。お祖父さんが亡くなったから、私ひとりだからね。
畑 しよったから、何でもいいよ」と
私「大豆カレーならできるよ。今から仕掛けるから、少し待っていて・・くださいな」
お米を研いで、麦をいれて、麦ご飯にして仕掛けて、ストックしていたカレーにたまねぎ 大豆を加えて
ストーブにかけて、煮込む。(プロパンガスの節約)
仕事をしたくて来たのだから、断る言葉が出そうになって、でも断ることができなかった。
需要があるということ、一人でも・・苦笑い。
*******************
安田さんのご主人は、1週間前に亡くなった。85歳だった。
安田さんは、40年神戸に暮らしていて、退職後笠島に戻ってきた。震災の1年前だったそうだ。
安田さんは、ご主人のことを「お父さん」という。お父さんが元気なとき、カレーを何度か自宅へ届けた。
このごろは、「お父さんの具合が悪くて だから、食べられないんよ」と話していた。
ずーっと 介護して、そして亡くなった。
「もう 年だったからね。」といいながら、カレーを食べてくださった。
妹尾さんも一人、吉田さんも一人。高島さんも一人、高島昭夫さんも一人、・・・さんも、・・さんも
淡々と 暮らしている。凄いと思った。
まだ、私は出来そうにない。
2010年03月16日
本島調査
東京理科大の大学院生君が、今年一年間、
「四国・瀬戸内地方の過疎地域のまちづくりと生活の継承」というテーマで研究調査をしたいと
事前調査のため、11月から数回に亘って笠島地区を訪れ、アルテをたずねていただいている。
本格的には夏ごろからだそうだ。こちらのアートプロジェクトとも連携して行きましょうと
話し合っているところである。
宮本常一という民俗学者のことを伝えたところ
彼からメールが届いた。
『今のこの時期に宮本常一氏の書籍に出会えたことは幸運だったと
そして、過疎・高齢化ということについては、ネガティブなイメージや情報
が先行しがちで、地域にまだ引き出せていない潜在的な「力」が多く存在して
いることを実感しました。』 といううれしい内容だった。
過疎の町に歴史探訪を目的に訪れる方は多い、
私は今回 ぜひ 宮本常一氏の姿勢をご覧いただきたいと思う。
水面に一適のしずくが落とされ、それが波紋のように広がって行く様を想像してみる。
宮本常一氏の姿勢から 学ぶことは多い。「忘れられた日本人」(岩波文庫)では
氏は次のように語っている。
「今老人になっている人々が、その若い時代にどのような環境の中をどのように生きてきたかを描いてみようと思うようになった。
単なる懐古としてではなく、現在につながる問題として老人たちの果たした役割を考えてみたくなったのだ。
私の一番知りたいことは、今日の文化を築き上げてきた生産者のエネルギーというものがどうゆう人間関係や環境の中から生まれ出てきたかと言うことである。」(あとがきより)
新しいものを生み出す源となり、新しいものを支えている古いものの価値を見いだすこと
伝建地区に関わりアート活動を行う場合に重要な背骨になる言葉だと感じている。
「四国・瀬戸内地方の過疎地域のまちづくりと生活の継承」というテーマで研究調査をしたいと
事前調査のため、11月から数回に亘って笠島地区を訪れ、アルテをたずねていただいている。
本格的には夏ごろからだそうだ。こちらのアートプロジェクトとも連携して行きましょうと
話し合っているところである。
宮本常一という民俗学者のことを伝えたところ
彼からメールが届いた。
『今のこの時期に宮本常一氏の書籍に出会えたことは幸運だったと
そして、過疎・高齢化ということについては、ネガティブなイメージや情報
が先行しがちで、地域にまだ引き出せていない潜在的な「力」が多く存在して
いることを実感しました。』 といううれしい内容だった。
過疎の町に歴史探訪を目的に訪れる方は多い、
私は今回 ぜひ 宮本常一氏の姿勢をご覧いただきたいと思う。
水面に一適のしずくが落とされ、それが波紋のように広がって行く様を想像してみる。
宮本常一氏の姿勢から 学ぶことは多い。「忘れられた日本人」(岩波文庫)では
氏は次のように語っている。
「今老人になっている人々が、その若い時代にどのような環境の中をどのように生きてきたかを描いてみようと思うようになった。
単なる懐古としてではなく、現在につながる問題として老人たちの果たした役割を考えてみたくなったのだ。
私の一番知りたいことは、今日の文化を築き上げてきた生産者のエネルギーというものがどうゆう人間関係や環境の中から生まれ出てきたかと言うことである。」(あとがきより)
新しいものを生み出す源となり、新しいものを支えている古いものの価値を見いだすこと
伝建地区に関わりアート活動を行う場合に重要な背骨になる言葉だと感じている。
2010年03月14日
いただいた野菜~
わけぎー
大根ー
たかなーー
ちさーー
ねぎ
ほうれんそうーー
葉ごぼう
春ご膳 出来ました。
子猫 の友達猫 と2匹が 私をみつけると
駆け寄ってきます。
足にくっついて、ついてくるので、足がもつれて 転びそうになります。
くっつくのが好きみたいです。
大きな猫も同じようなしぐさで
なつかれてしまったようです。
大根ー
たかなーー
ちさーー
ねぎ
ほうれんそうーー
葉ごぼう
春ご膳 出来ました。
子猫 の友達猫 と2匹が 私をみつけると
駆け寄ってきます。
足にくっついて、ついてくるので、足がもつれて 転びそうになります。
くっつくのが好きみたいです。
大きな猫も同じようなしぐさで
なつかれてしまったようです。
2010年03月13日
古風なる生活
今日は10時から、道の掃除・・・
まきちゃんが、朝7:40分の船で来てくれるから、6時に起きて、玄関を開けておいた。
昨夜から猫が二階に入っているようで、どんどんとうるさい。
どこから入るのだろう。現代の家屋は猫がもぐりこめる隙間はないが
伝建地区の建物は、江戸時代から明治・大正期の家屋だから
実につくりが簡単である。床板は一枚の板その上に畳を敷いている。
二階は踏み床になっていて、これも一枚。
エアコンが無い時代、このつくりで夏の暑さをしのぐことができるのだろう。
実家も日本家屋だった。玄関の土間は、15M四方くらいあって、天井がとても高く
夏はひんやりとして涼しかった。
隣の吉田さんが、「まきちゃんだけ出てくれたらええよ。あんたは、仕事しなさい!」って
お言葉に従って、考え事をする。。共同体の相互扶助が生きている場所・・笠島。
+++++++++++++++++
いずれの島の人々も、土地に縛られずに、外に飛び出すエネルギーを持っていたようだ。
塩飽大工、長府大工、一旦は島を離れ、そして晩年を島に戻ってすごす。
都市や内陸部に暮らす人々よりも、異なるスケールで日本を見ることになっただろう。
そして、己の輪郭をきちんと捉えていた。私が知る限りでは、明治生まれの祖父がそうだった。
寺に生まれ、中学生のとき九州の寺で一時修行をしたと話していた。夏友人と中四国を歩いたとも。
情報化社会といっても、地方を肌身で見ずには、偏狭な国家感しか育たないのではないか。
宮本常一は、「海と島の世界を歩けば、『ひとつの日本』では説明できないものをおのずと抱え込んでしまう」と語っている。
この人の凄さは、その過剰なまでの みるあるくきく という態度でしか見えてこない世界が間違いなくあることを示し、
しかも比較するという民俗学の方法にある。
相対化
異質に見えるものが、よその土地の民俗と繫がることで、全く別の風景が作り出せる。
+++++++++++++++++++++++++++++++
過疎で 遅れた離島と見ると、まず何も見えてこないだろう。
まきちゃんが、朝7:40分の船で来てくれるから、6時に起きて、玄関を開けておいた。
昨夜から猫が二階に入っているようで、どんどんとうるさい。
どこから入るのだろう。現代の家屋は猫がもぐりこめる隙間はないが
伝建地区の建物は、江戸時代から明治・大正期の家屋だから
実につくりが簡単である。床板は一枚の板その上に畳を敷いている。
二階は踏み床になっていて、これも一枚。
エアコンが無い時代、このつくりで夏の暑さをしのぐことができるのだろう。
実家も日本家屋だった。玄関の土間は、15M四方くらいあって、天井がとても高く
夏はひんやりとして涼しかった。
隣の吉田さんが、「まきちゃんだけ出てくれたらええよ。あんたは、仕事しなさい!」って
お言葉に従って、考え事をする。。共同体の相互扶助が生きている場所・・笠島。
+++++++++++++++++
いずれの島の人々も、土地に縛られずに、外に飛び出すエネルギーを持っていたようだ。
塩飽大工、長府大工、一旦は島を離れ、そして晩年を島に戻ってすごす。
都市や内陸部に暮らす人々よりも、異なるスケールで日本を見ることになっただろう。
そして、己の輪郭をきちんと捉えていた。私が知る限りでは、明治生まれの祖父がそうだった。
寺に生まれ、中学生のとき九州の寺で一時修行をしたと話していた。夏友人と中四国を歩いたとも。
情報化社会といっても、地方を肌身で見ずには、偏狭な国家感しか育たないのではないか。
宮本常一は、「海と島の世界を歩けば、『ひとつの日本』では説明できないものをおのずと抱え込んでしまう」と語っている。
この人の凄さは、その過剰なまでの みるあるくきく という態度でしか見えてこない世界が間違いなくあることを示し、
しかも比較するという民俗学の方法にある。
相対化
異質に見えるものが、よその土地の民俗と繫がることで、全く別の風景が作り出せる。
+++++++++++++++++++++++++++++++
過疎で 遅れた離島と見ると、まず何も見えてこないだろう。
2010年03月12日
今すんでいる場をともにして、新しい生き方を見つける
島を訪れる方には、ぜひ 読んでいただきたくて、
宮本常一のこと 彼の生き方を知ってもらいたくて
アルテには 、宮本常一関連書籍コーナーをつくりました。
そして、常一のお父さんの語った 息子を贈る10か条が素晴らしい。
++++++++++++++++++++ 以下は
「宮本常一のまなざし」佐野眞一著より
宮本常一氏は、山口県周防大島の出身である。
氏の父親は、無学な島の男だった。
「明治6年に生まれた長男の善十郎が宮本の父である。
その頃、宮本の家は極貧のどん底になった。
そのため善十郎はろくに小学校にもあげてもらえなかった」
善十郎氏は、フィジーに渡航し甘蔗栽培人もした。
なにもかも成功しなかった。そして傷ついて故郷に帰ってきた。
故郷は傷ついた善十郎氏を暖かく迎えてくれたという。
「その故郷をよくしていく以外、故郷に恩を返すことはできない」。
この善十郎氏が、故郷をあとにする宮本常一氏に送った十か条には、
当時の日本人が培っていた叡智が凝縮していた。
この十か条こそ、宮本常一氏の背骨ではないかと思う。
大正12年の話である。
少し長いが引用させていただこう。
第一条.汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田や畑に何が植えられているか、育ちがよいか悪いか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か茅葺きか、そういうところをよく見よ。駅へ着いたら人の乗りおりに注意せよ。そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また駅の荷置場にどういう荷が置かれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかどうでないところかよくわかる。
第二条.村でも町でも新しく訪ねていったところは必らず高いところへ登って見よ。そして方角を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ。そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへは必らず行って見ることだ。高い所でよく見ておいたら道にまようことはほとんでない。
第三条.金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。
第四条.時間のゆとりがあったらできるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。
第五条.金というのは儲けるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。
第六条.私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十をすぎたら親のあることを思い出せ。
第七条.ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻って来い。親はいつでも待っている。
第八条.これから先は子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。
第九条.自分でよいと思ったことはやってみよ。それで失敗したからといって親は責めはしない。
第十条.人の見のこしたものを見るようにせよ。そのなかにいつも大切なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。
++++++++++++++++++++++
懐古趣味でなく、日本人は、教養のあるなしでなく、普通にこういうことを考えていたのです。
高度経済経済成長以降と以前では 大きく価値観が変り
そして、よきものが失われていった。
今それを探そうとしても思い出すこともできないように変ってしまったのです。
でも 本島に来て 笠島の人々と関ると その日本人らしき姿が垣間見れるのです。
きちんと遺したいと思うのです。ですから、注意深く 大切にしながら、忘れていたり
失っている人々に 伝えたい。
宮本常一のこと 彼の生き方を知ってもらいたくて
アルテには 、宮本常一関連書籍コーナーをつくりました。
そして、常一のお父さんの語った 息子を贈る10か条が素晴らしい。
++++++++++++++++++++ 以下は
「宮本常一のまなざし」佐野眞一著より
宮本常一氏は、山口県周防大島の出身である。
氏の父親は、無学な島の男だった。
「明治6年に生まれた長男の善十郎が宮本の父である。
その頃、宮本の家は極貧のどん底になった。
そのため善十郎はろくに小学校にもあげてもらえなかった」
善十郎氏は、フィジーに渡航し甘蔗栽培人もした。
なにもかも成功しなかった。そして傷ついて故郷に帰ってきた。
故郷は傷ついた善十郎氏を暖かく迎えてくれたという。
「その故郷をよくしていく以外、故郷に恩を返すことはできない」。
この善十郎氏が、故郷をあとにする宮本常一氏に送った十か条には、
当時の日本人が培っていた叡智が凝縮していた。
この十か条こそ、宮本常一氏の背骨ではないかと思う。
大正12年の話である。
少し長いが引用させていただこう。
第一条.汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田や畑に何が植えられているか、育ちがよいか悪いか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か茅葺きか、そういうところをよく見よ。駅へ着いたら人の乗りおりに注意せよ。そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また駅の荷置場にどういう荷が置かれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかどうでないところかよくわかる。
第二条.村でも町でも新しく訪ねていったところは必らず高いところへ登って見よ。そして方角を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ。そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへは必らず行って見ることだ。高い所でよく見ておいたら道にまようことはほとんでない。
第三条.金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。
第四条.時間のゆとりがあったらできるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。
第五条.金というのは儲けるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。
第六条.私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十をすぎたら親のあることを思い出せ。
第七条.ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻って来い。親はいつでも待っている。
第八条.これから先は子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。
第九条.自分でよいと思ったことはやってみよ。それで失敗したからといって親は責めはしない。
第十条.人の見のこしたものを見るようにせよ。そのなかにいつも大切なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。
++++++++++++++++++++++
懐古趣味でなく、日本人は、教養のあるなしでなく、普通にこういうことを考えていたのです。
高度経済経済成長以降と以前では 大きく価値観が変り
そして、よきものが失われていった。
今それを探そうとしても思い出すこともできないように変ってしまったのです。
でも 本島に来て 笠島の人々と関ると その日本人らしき姿が垣間見れるのです。
きちんと遺したいと思うのです。ですから、注意深く 大切にしながら、忘れていたり
失っている人々に 伝えたい。
2010年03月12日
「無字社会の日本」である
宮本常一
人間でいちばんおもしろく、かつ人間らしいのは泥棒と乞食だ
宮本はこうした日本人たちが実は村をつくっていったのだと見ている。
宮本常一とは どのような人だったのか
民俗学といえば 柳田国男が第一人者と受け止められていますが 宮本常一がいた。 二人の違いは 象牙の塔に籠もり文献相手の研究に従事した柳田国男に対し 宮本常一は 離島や山間僻地を中心に日本列島を自分の足で広く歩きまわり漂泊民や被差別民を取材し研究した点にあります。 文化には「記録の文化」と「記憶の文化」があり 解読可能な「記録の文化」を民俗学として研究したのが柳田国男であり 語り継がれた解読不可能な「記憶の文化」(無字社会」を現地で見聞し調査したのが宮本常一の民俗学ということになります。
記憶・・・
宮本常一は 亡くなる3年前の1978年に次のように書いています。
「私は長い間歩き続けてきた。 そして多くの人に会い 多くのものを見てきた。 その長い道程の中で考え続けた一つは 進歩とは何であろうか 発展とは何であろうかということであった。 すべてが進歩しているのであろうか。 進歩に対する迷信が 退歩しつつあるものをも進歩と誤解し 時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。 進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めてゆくことこそ 我々に課せられている最も重要な課題ではないかと思う」
人間でいちばんおもしろく、かつ人間らしいのは泥棒と乞食だ
宮本はこうした日本人たちが実は村をつくっていったのだと見ている。
宮本常一とは どのような人だったのか
民俗学といえば 柳田国男が第一人者と受け止められていますが 宮本常一がいた。 二人の違いは 象牙の塔に籠もり文献相手の研究に従事した柳田国男に対し 宮本常一は 離島や山間僻地を中心に日本列島を自分の足で広く歩きまわり漂泊民や被差別民を取材し研究した点にあります。 文化には「記録の文化」と「記憶の文化」があり 解読可能な「記録の文化」を民俗学として研究したのが柳田国男であり 語り継がれた解読不可能な「記憶の文化」(無字社会」を現地で見聞し調査したのが宮本常一の民俗学ということになります。
記憶・・・
宮本常一は 亡くなる3年前の1978年に次のように書いています。
「私は長い間歩き続けてきた。 そして多くの人に会い 多くのものを見てきた。 その長い道程の中で考え続けた一つは 進歩とは何であろうか 発展とは何であろうかということであった。 すべてが進歩しているのであろうか。 進歩に対する迷信が 退歩しつつあるものをも進歩と誤解し 時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。 進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めてゆくことこそ 我々に課せられている最も重要な課題ではないかと思う」