
2009年07月13日
塩飽本島の歴史
写真は笠島伝統的建造物群保存地区にあるふれあい茶屋
旧小栗邸の建物をふれあい茶屋として、唯一飲食を提供している。
ここは、織豊時代、廻船問屋だった。
●ふれあい茶屋をどう運営するか
ローテーションを組むためには
丸亀を入り口として本島へとつなぐことを考える。
そのために、朝露企画だった西金カフェだが、本島ふれあい茶屋へと誘導する玄関として、再考したい。
●千葉幸伸先生に塩飽本島の歴史についてレクチャーをうける。
都市部では、歴史ずきな女子のことを歴女(レキジョ)というそうだが、
この島の歴史はまさに歴女におすすめ!!
塩飽本島の歴史と笠島地区 千葉幸伸
国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている丸亀市塩飽本島町笠島地区には、古い建物と集落がよく残っている。本島は塩飽諸島の中心であり、中でも笠島地区は泊地区とともに、長いあいだ本島の中心であった。
一 塩飽の島々
塩飽諸島の島の数は「塩飽七島」とも「二十八島」ともいわれる。「塩飽七島」というのは、太閤検地の段階で水夫(後に人名という)が住んでいた、①本島、②牛島、③広島、④手島、⑤与島、⑥櫃石島、⑦高見島の七つである(地図の番号参照)。
江戸時代になって御用船方(人名)が移住した三つの島がある。⑧沙弥島、⑨瀬居島、⑩佐柳島である。明治以降人が住み始めたのは、⑪岩黒島、⑫小与島、⑬小手島の三つである。
これらの他に、大小無人の島々が一五ある。⑭室木島、⑮小裸[無衣]島(コシキ島)、⑯大裸[無衣]島、⑰歩渡島、⑱羽佐島(以上櫃石島の属島)、⑲鍋島、⑳三子島(以上与島の属島)、○小瀬居島(櫃石島の属島)、○長島、○雀小島、○向[向笠]島、○弁天島、○烏小島(以上本島の属島)、○小島(佐柳島の属島)、○二面島(高見島の属島)。以上二十八島である。
岡山県のすぐ近くまで及んでいるのは、中世における塩飽水軍の活発な動きの結果であろう。
二 水軍の活躍
塩飽水軍が初めて歴史に姿を見せるのは室町時代初期(南北朝期)である。北朝方細川氏に従い、南朝方の忽那水軍に攻撃されている。攻撃された城郭は笠島地区の東に接して今も残る笠島城であろう。
塩飽の人々は室町時代中期まで東讃守護代安富氏の配下で細川京兆家(本宗家)に従っていた。兵庫北関(今の神戸港)を通過した船の記録を見ると塩飽の船が塩などの荷物を積んで活躍している様子が窺える。室町時代後期(戦国期)になると転機が訪れる。細川家が分裂して力を失ったことで大内氏に従う。塩飽の人々は大内氏の下で朝鮮や中国(明)との貿易に加わり大いに繁栄したようである。大内氏に代わって毛利氏が力を得ると能島村上の配下で毛利氏に従った。能島村上が反毛利氏になり九州の大友氏に味方したときは、安富氏に代わった阿波の三好氏の配下で反毛利氏の行動をとった
やがて織田信長が登場してくると信長方に加わったが、再び毛利側についたりもしている。土佐の長宗我部氏が四国を席巻すると香川氏配下の白方水軍に短期間ではあるが従っている。信長に代わって秀吉の時代になると、秀吉に従って物資輸送に大いに貢献した。
三 人名の島
秀吉への貢献が認められた塩飽の水夫たち六五〇人は、物資輸送の任を果たす代わりに塩飽諸島において一二五〇石の土地を領有する特権を認められた。江戸幕府の時代になってもこの特権は継続して認められ、御用船方としての義務を果した。これらの人々のことを「人名」という。ただし身分はあくまで百姓で大坂町奉行所(のち倉敷代官所)の支配を受けた。
四 笠島の集落
人名六五〇人の内、九〇人が本島の泊浦に、七八人が笠島浦に住んでいた。この二集落が他の島、他の集落に比べて圧倒的に多い。人数でこそ第二位となっているが、笠島浦の立地は江戸時代の本船航路に面し、倉敷代官所の支配を受けた関係で、いわば表玄関の役目を持っていた。
明治になると、本船航路は本島の南を通るようになり、行政上も丸亀市に属し、次第に笠島地区は島の裏玄関のようになっていった。立派な家を建てながら島から出ていく人も多くなった。幕末の家一一棟、明治の家二〇棟を含む一一一棟の建造物の密集する特異な町並みが今日まで奇跡的に残ったのは、かつての繁栄と、近代化の過程で日影に置かれたという明暗二つの条件が相まってもたらした結果である。「いつかまた島に戻りたい」という島出身者の思いが古い家を壊さずに残してきたともいえる。
昭和五二年(一九七七)度に文化庁の伝統的建造物群保存地区対策事業に指定されたことで、丸亀市教育委員会は香川県教育委員会の指導を得て保存状況の調査を実施した。この調査の結果に基づき、丸亀市塩飽本島町笠島地区は、幕末から明治にかけての古い建物と、港を控えた古い町屋的景観がよく残っているということで、昭和六〇年四月一三日、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。そして昭和六〇年度より保存修理が順次行われ、今日に至っている。
2009年07月06日
ひらがなワークショップ



ひらがなワークショップ
丸亀市が保有している旧真木邸は、笠島地区の「マッチョ通り」と呼ばれる中心部にあります。計画では、ここを会場に住民と作家相互のレクチャーやワークショップを行い、廻船業で栄えた笠島の歴史や日本で最初の船大工の話など地域の住民の記憶を掘り起こすことでした。しかしプロジェクト開始までに準備期間が与えられず、笠島地区の住民に対して、この事業の告知、協力の依頼が不十分のまま、福永信は、15日間の予定で9月28日から本島に入りました。
《ぱっと思いつくひらがな一文字を記名をして落書き帖に書いてもらう。》
ここに暮らす人は、お年寄りがほとんどで、お互いが顔なじみです。そこでワークショップのひとつ、「アーティストと島の人々との共同作業となるワークショップは、「好きなぱっと思いついたひらがな」を一文字書いてもらい、これを話のきっかけにして、島での生活や思い出などを集めることに変更しました。翌日から9月29日から10月12日まで、笠島地区の住民を対象にほぼ毎日、個別に訪問を行いました。
「ひらがな一文字?おかしなことを言う」と、島の人々はたずねた私たちに不思議な顔をされながらも、この島の自然環境そのままに、人々は、ゆったりとしたリズムを持っていて、気さくでおおらかなやり取りが交わされました。集まったひらがなは、出会いの痕跡となりました。

2009年07月06日
得丸 成人 TOKUMARU Naruhito



Title: 無題
Material:映像
Date: 2006年
制作ノート
瀬戸内の海に面する街に住みながら、今までたったの一度も上陸することの無かった小さな本島。島に行くことになって、船に乗った時は未知の土地を想像して気持ちが高ぶってしまいました。
初めて渡った時の船はフェリーでは無く客船だったので、海風に当たりながら約20分の時間をカメラ片手に着岸するまで立ったままでした。
港まで迎えに来てくれてた車に乗り込んで笠島地区に行く間もカメラは回しっぱなしでしたが、年季の入った軽四はブレーキの効きも悪いうえ、カーブの多い道を行くので、揺れが激しく、撮れた映像も縦に横に揺れて暴れてました。
笠島地区に着いて最初に思ったことは、「静かすぎる・・・」。
常日頃なんらかの音にまみれて仕事をする私にとってこの島の時間は長く遅く感じるのです。
毎日の喧騒がここには無い・・・、たったこれだけで私の体内時計が狂いました。
歩いていれば人とも会うだろうし音もあるだろうと思い、写真を撮りに町並みへ出てみても、人の話し声がポツリポツリと聞こえて来るだけでほぼ無音。あまりにも静かすぎて寂しくなってしまい、時間の狭間に落っこちてしまった気分になりました。まさに日常から離れた別世界が、鍵型の小さな路地に広がっていました。
暫くして、福永氏の写真を撮ってほしいと頼まれ、様子を窺いに真木邸へ。
想像はしてたけれど、想像を超える真木邸の渋さに感動。神棚の細工や、窓の作りなど職人のこまやかな仕事が文化財たる所以か・・・などと一人で納得する。
実際はもっと理由があるのだろうけど、そこに一番感動してしまった。とにかく、ここにあるものは古いだけではなくて、いろんな思いが詰まってる感じがします。
福永氏の写真を撮り終える頃には周りの音がよく聞こえる様になって、人の咳払いや食器を洗う音が聞こえていました。
笠島に訪れる度、いろんな事を忘れてるなと感じさせられました。
蒸かしただけのサツマイモの味とか、干したタマネギの匂いとか、
銀杏の実の臭さとか、海風の音なんか。
あと、路地裏の夕飯の匂いなんかも懐かしかった。
スローでゆるーい時間が今でも流れてることがとても嬉しかった。
この場所に足を運んでなければ味わうことの出来なかった体験ですね。
日常の一瞬の光景や、知ってるはずのモノの色や、人の表情がどんどん変わって行く気がしました。
ひとつひとつ切り取った時間が語る事を、私というフィルターを通してどんな光に変わっていくだろう?映像を編集しながらそんなことを考えるようになりました。
略歴
予定調和を嫌い、常にLIVEな表現を進行するクラブパーティのVJ。
1999年 Visual Jockeyとして活動を始める。
2003年 東南アジアに活動範囲を拡大し、タイ、マレーシア、シンガポールのプロダクションからオファーを受ける。自称パーティ中毒者、感覚記録者。
2003年3月 「REDZONE」にVJとして参加。( Ferrari&Marlboro KLタワー/マレーシア)
2004年10月 「MotoGP」にMain VJとして参加。(セパンサーキット/マレーシア)
2005年3月 「PIT PATY」にMain VJとして参加。(Renault&MildSeven KLタワー/マレーシア)
2005年7月 「PALA」 (映像機材ショー/シンガポール)
2005年11月アジア最大・ゲイコミュニティパーティ「Nation」に参加。(プーケット島/タイ)
2006年6月 HOT LINKのパーティ「KICK‐OFF PARTY」に参加。(マラッカ/マレーシア)
2009年07月06日
中屋敷 智生 NAKAYASHIKI Tomonari
Title:「NIKKI -marugame-」Material:acrylic on canvas
1303(H)×1940(W)F120号
Date: 2006年
今回の展覧会の打ち合わせに参加する為、私は一路丸亀へと向かった。
その日は、あいにくの雨模様。せっかくの小旅行も気分は少し優れない。
4時間後、ねぼけ眼のまま丸亀の町へと降り立つ。
すると、早朝から降っていた雨が止んでいる。
青い空が、灰色の雨雲のカーテンの隙間から、うっすらと顔を覗かせている。
なんとも美しい情景ではないか。
今しかない。私は海の見える丸亀港へと走り出した。この町に何度も降り立っているせいもあり、港の場所なら直ぐに分かる。私は、急いでカメラのシャッ ターを切り始めた。
丸亀港からまっすぐ北に向かって。ちょうど、今回の展覧会会場の本島上空あたり。
私は、帰京すると同時に、この雨上がりの美しい丸亀の空の絵を描き始めた。
それは、丸亀で生まれた方には、懐かしい思い出の空に映ったのかもしれない。
または、ただの空の絵だったのかもしれない。
遠方からの来場者には、どのように映ったのだろうか。
心に秘められた、記憶の琴線に触れることができただろうか。
太古の昔から、そこに流れる空。
同じ空ひとつでも、その見え方は様々だ。
歴史ある旧真木邸に、私の絵が飾られたことを誇りに感じつつ、島民の方々、本島笠島地区へご来場下さった方々に、この場を借りて感謝とお礼を申し上げま す。
略歴
1977年 大阪府生まれ
2000年 京都精華大学美術学部造形学科洋画分野卒業
主な個展
1999・2000年 中屋敷 智生展 (ギャラリーココ/京都)
2002年 中屋敷 智生展 (Oギャラリーeyes/大阪 )
2003年「The Doubtful Balance」 (ギャラリーアルテ /香川)
主なグループ展
2001年 「OPPAI ART LAB πr事情」展 (京都)
「現代美術茨木2001」展 (大阪)
2003年 「絵画の証」展 (大阪)
「第16回名古屋コンテンポラリーアートフェア」 (名古屋)
「ワンカップコスモス」展 (名古屋)
2004年 「縁起-connection」展 (ギャラリーアルテ 香川)
「8va(アロッターヴァ)」展 (ギャラリーアルテ 香川)
2009年07月06日
真部剛一 MANABE Koichi

真部剛一 「histream KASASHIMA」
インスタレーション
Title:「histream KASASHIMA」Material:アクリル、鉄粉、水、蛍光灯、ポンプ、センサー
Date: 2006年
真木邸の土間上の部屋は、かつて居室として使用された場所である。雨戸を締めると、二階物置からのわずかな陽射しだけでほのぐらい。この部屋の床(ユカ)は畳の周囲に一部板を嵌め込んでいる。板の部分に透明な液体を入れたアクリルボックスを設置し床下から照明を施したもの。アクリル内部の液体は、海流と同じタイミングで水の流れが起こされ、伝統的建造物(旧真木邸)の内部に海を作り出し笠島地区の海の歴史をイメージさせる作品となった。
制作ノート
瀬戸内海に浮かぶ700近くの島々。その中の塩飽諸島、本島に向かう。人口は千人に満たず過疎化していくなかで、笠島地区は往時を思わせる街並みを保存し、島の歴史を伝えている。私はまずその島に少なからず滞在し、島民に島の歴史や、これからの島の有り様を聞き、それらをもとに私の視点で作品化し島の人々に見てもらいたいと思った。島民にとって作品が、常に変動し進化していく島を映し出す鏡のような存在であってほしい。そんな気持ちで島を見つめていると、島の内側よりも、外側を囲んでいる海に目が向いた。おしては返す波を見ていると歴史の流れ、生命の流れを感じる。塩飽水軍、塩飽大工、様々な歴史の流れに身を委ね、逆らい、その時々での選択によって今の島の姿がある。その流れを遡って想像することができるような作品ができないだろうかと滞在中、考えていた。岡山・児島からこの島に通う海路、平穏な天候の時は船に乗ると波も静かで、島に着いても心も穏やかでいられる。しかし、内海といえども荒れ模様の時の波は凄まじく、船は2、3メートルも上下するほどであり、島に着いても心の動揺は治まらない。そんな波を感じているうちに、人々は昔からどのような思いでこの島に向かっていたのか、自分が島に向かうことと重ね合わせて考えるようになった。
閉め切っていた真木邸に初めて入り雨戸を開ける。光と共に空気が入れ替わった部屋で、私の視線は畳で止まった。建物全体は当時の建築様式に則って復元されているが、畳は現代の規格のもので小さい。建物との寸法に差異が生じている。その隙間を埋めるため、きれいに板がはめられており、私にはその隙間そのものがまるで現在から過去へ遡るための入口のように感じられた。帰路、船上で波に揺られながら島の記憶を辿る。真木邸での光の陰陽、波の変遷、島民との交流。それらを通して作品の構想はできあがった。後日その板と床板を外してアクリルケースを設置し、内部には瀬戸内海の潮の満ち引きと同じタイミングで水流が起こるよう、ポンプとタイマーを調節し特殊な水を循環させて流した。すべての設置が終わった時、初冬の朝日が部屋に差し込んできた。古民家のなかにはあたかも小さな海が出現し、静かに時間を刻んでいるようであった。畳の隙間に現れた透明な海を覗き込むと、鉄粉の粒子が渦を巻き、ゆっくりと粒子が塊となり、島が生成されていく瞬間に立ち会うことができる。そのような感覚に包まれながら、私は島を流れる悠久の時間を感じ取っていた。
略歴
1974年 岡山生まれ
1999年 京都市立芸術大学大学院修士課程修了
現代美術家
主な個展・グループ展
2004年 「histream」 (黄土高原・楊家溝村/中国)
「TRUE COLORS」 (シラバコーン大学アートギャラリー/タイ)
2005年 「アートリンク・プロジェクト2005-2006」 (すろうがギャラリー/岡山)
「煙の変遷」展 岡山「eat」展 (ギャラリーアルテ /香川)
「昭和40年会presents七人の小侍+1」(東京)
2006年 「エイブル・アート・リンク2006」展 (福岡)
「アートの今・岡山2006」 (岡山)
2009年07月06日
ふるかはひでたか 『記憶のカケラ~本島 』



ふるかはひでたか 「記憶のかけら」
床(トコ)に立体、軸物、陶片によるインスタレーション、
本島の浜辺には、島の人々の暮らしを偲ばせる硝子や陶器のかけらがたくさん落ちている。ふるかはひでたかは、幾世代にも渡って波に洗われた陶片を拾い集め、数十種類の陶片を金継(*1)の技法でつなぎ合わせ、ひとつの器を形作った。陶片は江戸時代から明治、大正、昭和にかけてのものが多く見いだせる。福永信とは異なるアプローチによる島人の暮らし(記憶)の集積を想像させる作品。
*1[金継ぎ/金繕い]は、欠け、割れ、傷ついた陶磁器を漆で継ぎ、傷に純金で蒔絵を
して繕う伝統の技法
写真解説
真木邸の床の間 陶片を漆による金継を施し、形作られたひとつの立体作品。
陶片の制作模型図を色紙仕立てにした軸物。陶片で本島の島を形作ったインスタレーション。
『記憶のカケラ~本島 』
本島の浜辺を歩いていた。五月晴れに潮風が心地よい。
波打ち際で、貝などに混じって波に洗われる陶片を見た。砂に呉須の青が映えて美しい。幾つかそんな陶片を手にとって、浜に並べて見ていると、想像は勝手に巡りはじめる。
これらは島で使われた器か、それとも流れ着いた陶片だろうか…。恐らく、もともと異なる時代に別々の土地で作られたものだろう。そして様々な人の暮らしの中で、それぞれに物や思いを収めてきた器であったに違いない。
なんだか眺めるうちに、暮らしであるとか歴史といった、島を内から外から形作ってきた営みの、「記憶のカケラ」たちが浜に寄せ、ぐるりと島の輪郭を描いているような…そんな幻想にとらわれてくる。
突然、この陶片たちを呼び継いで、新たな器を作ったらどうだろう…なんて思いつきが頭をよぎった。
職人が土から作った器が、幾多の手を経て砕けたのち、今また島の浜で土に帰ろうとしている。そんな、過去の営みの痕跡を、新たな器として再生させるのだ。これは忘却過程にある記憶を編み直して、新たな歴史を作ることに近い。きっと出来た器は、島の姿を反映するものとなるだろう。
七月、プランを胸に再び本島を訪れた。浜を歩いて3kgにも及ぶ陶片を拾い集めた。それらを持ち帰った僕は、まるでパズルでも解くかのように器を拵えた。そうして出来た器には、そのまま島の名をつけた。
陶磁器に詳しい方に尋ねたところ、器の陶片には、明治期の印判染付や、江戸中期の伊万里などが見られるという。カケラたちはどんな記憶を語ってくれているのか。器は小さな空間を抱え、そこに収めるべき想像を待つようだ。
展覧会では、旧真木邸の床の間に器を据えた。隣りには、拾い集めた陶片の残り全てを用いて、本島の形を模った。もしも、展覧会を訪れた人のうち幾らかでも、島の経てきた年月や、そこに暮らした人々の面影を、この作品に夢見て頂くことができたならば、それに優る幸せはない。
2009年07月06日
2009年05月29日
地域とアート7 平野祐一さんのテキスト
瀬戸内アートウェーブSAWのメンバーでもあり、昨年のこんぴらアートではアーティストとして参加してくださった香川でユニークな建築家として活躍している 平野祐一さんのテキストです。
平野さんは8月から現地調査に同行していただきました。島の人々と交流したいと、本島の盆踊りに一泊2日の日程で滞在しました。本島の盆踊りは昔ながらの地域の人々の盆踊りでした。平野さんのテキストを再読して、盆踊りに深く感動した記憶を思い出しました。原稿は揃っているので、編集者を新に探して、出版をして、本島の魅力を伝えなくっちゃ・・・。
平野祐一
建築物はアーティスト達によってどう変貌するのだろうか。またアーティスト達は建築物から何を得るのだろうか。そういう建築的興味からこのプロジェクトに参加した。
笠島の夏祭りの日、島の人たちとの事前交流のため笠島にはいり夕方から始まった盆踊りを見に行った。少ない人数で始まった盆踊りの輪に外部から来た私たちも見よう見まねで加わっていく。風呂敷に包んだものを背負って踊っている人たちが何人かいてそれが位牌だと教えてもらう。家族が交代で背負うらしい。最近他界した家族の霊がお盆の日に戻ってきて家族と一緒に踊っているわけだ。そんなディープな世界の中へ芸術活動が目的の私たちも入り込んで踊っているのだが、意外と違和感がなく、もう島の人たちと溶け込んでいる感じがして、それは新鮮な驚きだった。私たちは実は歴史の集積に日ごろから包まれていているのだがたいていはそれに自覚せずに、科学と抽象的思考の世界に生きていると思い込んでいるのかもしれない。踊っていて意外と心が安らぐし、なにか自然の霊や人の霊が回りに漂っている感じがする。島に来て私たちは何も得ない。自分の中にあるものを見つけてそして帰っていくのではという予感がその時あった。
真木邸で行われた作品展。ひっそりとたたずむ笠島の町並み。面的に広がる通りや集落に往年の繁栄がしのばれるが、離島であるため訪問者は少なくまるで演者のいない舞台のような笠島の集落の中で、現代芸術の器となった真木邸にまったく違和感はなかった。作品はそれぞれ斬新な発想で笠島を捉えているがそれぞれ真木邸の伝統的な建築的しつらえの中に見事に納まっている。伝統的しつらえが作品によって生かされているといってもいい。床 出格子 土間、それぞれその意味が作品によって取り戻されているように感じた。
アーティスト達はもとからそういう伝統的な感性を持っているのだと思う。若さとかは関係ないだろう。島に滞在中に自分の宝石を自分から掘り出してそして帰っていくのだろうと思う。では建物は。しばし不思議な空気に包まれてそしてまた以前と同じようにあるだろう。触媒のように変わらずにあり続けることが建築の一つの役割なのだ。
2009年05月28日
地域とアート6 本島の場合 毛利義嗣さんのテキスト
高松市美術館 学芸員 毛利義嗣さんのテキストです。

しまじまのしじまに
毛利義嗣 errorprogram
展覧会場になっている屋敷から神社へ向かう中ほどの、地区の人がこしらえるうどんのバザーで私たちが並んでいると福永さんも食べにやってきた。少し遅い昼ごはん。顔見知りなのだろう、小学生くらいのたぶん近所の女の子たちに声をかけられている。からかわれているのか、からかっているのか。うどんは舌が痛くなるほど熱くて、おいしい。そこからゆるい坂道を登るとすぐに神社の境内で、少しばかりの露天店があって向こうで餅つきの準備をしている。手前には商品名の入ったモダンな提灯に飾られた小さめの山車が置かれている。その間の道を抜けて鳥居をくぐりトコトコトと階段を登って行くと、右手に急に視界が広がり、海があった。
この日、少し早起きして高松から丸亀まで車で走り、本島行きのフェリーに乗る。初めてだった。「アーティスト・イン・笠島」のイベントに行くためだが、この日がもともと島の祭りの日でもあるということはフェリー乗り場のチラシで知った。乗客が多い。島から出て行った人もこの日だけはと、大勢帰ってくるのだと後で聞いた。ずいぶんきれいな船だと思っていたら、船内のアナウンスで、このフェリーは新造で今日が初航海だといっている。以前からこの展覧会を手伝っていた知り合いのマキちゃんも同じ船に乗っていて、前の船と新型船の違いなどを探索している。下り坂との天気予報だったがまだ晴れ間が見えている。
船はすぐに島に着いた。港から笠島地区まで車で5分くらい。会場の辺り一帯は祭りに賑わっている。真木邸というよく手入れされた立派な屋敷に入るとそこは薄暗く、どこか酸い木や土の臭いがする。大阪万博の年を過ぎるまで土間で釜戸炊きだった私の生家を思い出す。靴を脱いで畳の間に上がると、福永さんたちの作品があった。福永さんもいて誰かと話していたのでその後で私たちもこんにちわをして、彼の作品を見た。たくさんの写真も9冊の「らくがきちょう」も、そこにあるのが当然のようにしてそこにあって、私は少し幸せな気分になった。古い家に新しい人の匂いがするのはいいことだ。
ここのところ島と縁があった。10月6日。直島というこれも瀬戸内海の小さな島に渡ると、作家の大竹さんがごきげんな屋敷を作り終えたところだった。それはまた奇怪な作品で、触れば紫の海の匂いがして、見れば灰褐色にくすぶる空の裏側をネオンの光が飛ぶといった風情のものだった。それで、12月20日。清澄白河駅から地上に出て、あさりの炊き込みご飯とか深川のおいしそうな食べ物屋が並ぶ商店街を抜けて殺風景な現代美術館に行ったのだが、近づくと、屋上に「宇和島駅」が見えた。前に直島でも見た。もっと前に水戸でも。子供の頃に宇和島駅で見たかもしれない。たぶんどこでも見えるのだろう。
年を越して1月2日には鹿島という愛媛の小島に久しぶりに船で渡って、慣れない磯釣りをした。快晴で風が強い。老いた家族と若い家族と中間くらいの家族で行った。何かの魚が三匹釣れた。5時すぎには西の海に日が沈み馬鹿みたいにきれいだ。撮っといてよと子供に言われるが撮らなかった。
本島の神社の境内から見渡す海は少しだけビデオで撮った。ここもまた馬鹿のようにきれいな光景ではあったのだが、雨の前の湿った空気が私の緊張を和らげたからだ。少し煙るくらいの光景が人間にはちょうどいいのだろう。書き留めたり写真を撮ったり録音したり録画したり。あまりに明確で美しいものは記す意味さえないし、記せない。
道を下ってまた屋敷に戻る。ギターや歌のライブが始まる。雨が降り始める。ありがとうと言ってライブが終わる。もう帰る時間。でもまだ外は明るい。子供たちは冷たい雨の中でその辺りを走り回っている。福永さんがまた、さっきの女の子に加えて男の子たちにもかまわれたりかまったりしている。彼は今回の滞在で何か変わったのだろうか。私自身は何か変わったように思える。おだやかな一日だった。2006年11月23日のことはたぶんずっと忘れない。
しまじまのしじまに
毛利義嗣 errorprogram
展覧会場になっている屋敷から神社へ向かう中ほどの、地区の人がこしらえるうどんのバザーで私たちが並んでいると福永さんも食べにやってきた。少し遅い昼ごはん。顔見知りなのだろう、小学生くらいのたぶん近所の女の子たちに声をかけられている。からかわれているのか、からかっているのか。うどんは舌が痛くなるほど熱くて、おいしい。そこからゆるい坂道を登るとすぐに神社の境内で、少しばかりの露天店があって向こうで餅つきの準備をしている。手前には商品名の入ったモダンな提灯に飾られた小さめの山車が置かれている。その間の道を抜けて鳥居をくぐりトコトコトと階段を登って行くと、右手に急に視界が広がり、海があった。
この日、少し早起きして高松から丸亀まで車で走り、本島行きのフェリーに乗る。初めてだった。「アーティスト・イン・笠島」のイベントに行くためだが、この日がもともと島の祭りの日でもあるということはフェリー乗り場のチラシで知った。乗客が多い。島から出て行った人もこの日だけはと、大勢帰ってくるのだと後で聞いた。ずいぶんきれいな船だと思っていたら、船内のアナウンスで、このフェリーは新造で今日が初航海だといっている。以前からこの展覧会を手伝っていた知り合いのマキちゃんも同じ船に乗っていて、前の船と新型船の違いなどを探索している。下り坂との天気予報だったがまだ晴れ間が見えている。
船はすぐに島に着いた。港から笠島地区まで車で5分くらい。会場の辺り一帯は祭りに賑わっている。真木邸というよく手入れされた立派な屋敷に入るとそこは薄暗く、どこか酸い木や土の臭いがする。大阪万博の年を過ぎるまで土間で釜戸炊きだった私の生家を思い出す。靴を脱いで畳の間に上がると、福永さんたちの作品があった。福永さんもいて誰かと話していたのでその後で私たちもこんにちわをして、彼の作品を見た。たくさんの写真も9冊の「らくがきちょう」も、そこにあるのが当然のようにしてそこにあって、私は少し幸せな気分になった。古い家に新しい人の匂いがするのはいいことだ。
ここのところ島と縁があった。10月6日。直島というこれも瀬戸内海の小さな島に渡ると、作家の大竹さんがごきげんな屋敷を作り終えたところだった。それはまた奇怪な作品で、触れば紫の海の匂いがして、見れば灰褐色にくすぶる空の裏側をネオンの光が飛ぶといった風情のものだった。それで、12月20日。清澄白河駅から地上に出て、あさりの炊き込みご飯とか深川のおいしそうな食べ物屋が並ぶ商店街を抜けて殺風景な現代美術館に行ったのだが、近づくと、屋上に「宇和島駅」が見えた。前に直島でも見た。もっと前に水戸でも。子供の頃に宇和島駅で見たかもしれない。たぶんどこでも見えるのだろう。
年を越して1月2日には鹿島という愛媛の小島に久しぶりに船で渡って、慣れない磯釣りをした。快晴で風が強い。老いた家族と若い家族と中間くらいの家族で行った。何かの魚が三匹釣れた。5時すぎには西の海に日が沈み馬鹿みたいにきれいだ。撮っといてよと子供に言われるが撮らなかった。
本島の神社の境内から見渡す海は少しだけビデオで撮った。ここもまた馬鹿のようにきれいな光景ではあったのだが、雨の前の湿った空気が私の緊張を和らげたからだ。少し煙るくらいの光景が人間にはちょうどいいのだろう。書き留めたり写真を撮ったり録音したり録画したり。あまりに明確で美しいものは記す意味さえないし、記せない。
道を下ってまた屋敷に戻る。ギターや歌のライブが始まる。雨が降り始める。ありがとうと言ってライブが終わる。もう帰る時間。でもまだ外は明るい。子供たちは冷たい雨の中でその辺りを走り回っている。福永さんがまた、さっきの女の子に加えて男の子たちにもかまわれたりかまったりしている。彼は今回の滞在で何か変わったのだろうか。私自身は何か変わったように思える。おだやかな一日だった。2006年11月23日のことはたぶんずっと忘れない。
2009年05月28日
地域とアート5 吉川神津夫さんのテキスト
このところ、記録集のためのテキストの一部を掲載しています。
地元メディアからは、解りにくいといわれた本島でのart projectでしたが、かねてより美術の中でどのように受け止められたのか。Webを通じても発信するべきというご意見は、いただいていたので、この機会にご紹介しようと考えました。
日をわけて掲載しています。
昨日はアーティストでもある池田剛介君の美術批評
本日は、徳島県美 学芸員である吉川神津夫さんのテキストです。

吉川神津夫 YOSHIKAWA Kazuo
徳島県立近代美術館学芸員
「交流」の外から
私が本島を訪れたのは、12月11日の月曜日、その昼間のほんのわずかの時間である。瀬戸内アートプロジェクト(SAP)では、ワークショップや作品制作のために作家たちが滞在した時期やオープニングのイベントで賑わった時期を既に過ぎていた。
丸亀港から本島まで、わずか30分程度だが、島の人々にとっては日常の足である船に乗っているうちに、どこか異界に行くような気持ちになったものだ。島に着いて港を少し離れると、人影や車をほとんど見かけなくなる。笠島地区に着いてからも同様だった。それ故、普段以上に様々な感覚が敏感になり、見ることができる景色や感じられる音があった。私にとっては、この過程ですでにプロジェクトが始まっていたように思う。
美術作品が展示されていたのは、笠島地区にある重要伝統的建造物群の旧真木邸であった。保存地区の建造物であるが故の制約がある中で、展示された作品は建築物の持ち味を損なうこともなく、地域や展示空間と誠実に向き合っていたものだった。
たまたま裏口から入ったことで、展覧会の始まりが中屋敷作品からとなった。そして、邸内を行き来している中で、この作品が場所に対して最も異なる質感を持っていたにもかかわらず、非常に場となじんでいたことが印象に残った。また、今回の作品の中で唯一の絵画作品であることから、空間全体のアクセントになっていたとも思う。
展覧会画像
中屋敷智生「NIKKI -marugame-」
福永信「笠島日記」
ふるかはひでたか「記憶のカケラ~本島 」
真部剛一「histream KASASHIMA」
得丸成人映像
先述したように、私は島を訪れる過程まで含めて一つのプロジェクトと捉えていたので、展示作品の少なさをそれほど問題とは思わなかった。しかし、いわゆる現代美術のイベント的なものを期待して来島した人にとっては、作品数が少ないことに物足りなさが残るのではないかとも思った。SAPの趣旨が、まず島(笠島地区)の人々と作家たちとの交流であるにしても、第三者に対して開かれているのだから、来年以降、展示場所も含めて検討の余地はあるのではなかろうか。
ところで、福永作品や彼の「音を撮る」ワークショップの記録から交流があったことがわかるものの、展示全体と交流という趣旨が結びつくものではなかった。むしろ、私が交流について考えるようになったのは、本島を訪れた直後、SAPのホームページを読み、また、今回原稿を書くにあたり再読することによってである。


かつて瀬戸内交易で栄えた本島の人たちにとって、交流とは自らのルーツと言えるものだ。時代の変化から人口が少なくなった今でも、なにがしかの交流を求めている人はいるだろう。しかし、いわゆる現代美術の作家たちとの交流を望んでいる人がいたのだろうか。否、そもそも「現代美術」やその作り手の存在自体、人々の意識の外にあったのではないかと思う。
SAP代表の梅谷さんに聞いたところでは、プロジェクトを進めていく過程で、例えば、レジデンスやワークショップという言葉が島の人には通じなかったとのことだった。違った価値観を持つ者同士が交流をはかるためには、まずそれぞれの価値観を相手に伝わるようにすることが必要になる。このことは本島が特別なのではなく、どこの地域、場所にでも存在する問題でもある。島という地勢から問題が見えやすくなったに過ぎない。
さらに、福永信氏の「笠島日記」で触れられているのは、プロジェクトのためにレジデンスして島の人々と交流するとはどういうことかとか、どのようなワークショップが可能かといった模索の過程であった。ある意味、プロジェクトにとってはこの過程が11月の本番と同様に重要だったではないかと思える。あるいは、このプロジェクトが今後も継続していくものであると考えれば、まだ土地をならして種を蒔いた段階くらいなのかも知れない。交流によって新しい価値観が生み出されることへ向けての。
もっとも、交流するもう一方の側である島の人々のことを私は知らない。ただ、「笠島日記」の中に印象に残ったエピソードがある。福永氏の好きなひらがなを一文字書いて欲しいという希望に対して、「大」と書いた人や「きびう」と書いた人のことだ。彼らが趣旨を理解しなかったというよりは、何か文字を書くにあたってこれらの言葉がこぼれてきたように感じたからである。それぞれの言葉の背景はわからない。しかし、わからないが故に、私のSAPへの関心も続いているのである。
地元メディアからは、解りにくいといわれた本島でのart projectでしたが、かねてより美術の中でどのように受け止められたのか。Webを通じても発信するべきというご意見は、いただいていたので、この機会にご紹介しようと考えました。
日をわけて掲載しています。
昨日はアーティストでもある池田剛介君の美術批評
本日は、徳島県美 学芸員である吉川神津夫さんのテキストです。
吉川神津夫 YOSHIKAWA Kazuo
徳島県立近代美術館学芸員
「交流」の外から
私が本島を訪れたのは、12月11日の月曜日、その昼間のほんのわずかの時間である。瀬戸内アートプロジェクト(SAP)では、ワークショップや作品制作のために作家たちが滞在した時期やオープニングのイベントで賑わった時期を既に過ぎていた。
丸亀港から本島まで、わずか30分程度だが、島の人々にとっては日常の足である船に乗っているうちに、どこか異界に行くような気持ちになったものだ。島に着いて港を少し離れると、人影や車をほとんど見かけなくなる。笠島地区に着いてからも同様だった。それ故、普段以上に様々な感覚が敏感になり、見ることができる景色や感じられる音があった。私にとっては、この過程ですでにプロジェクトが始まっていたように思う。
美術作品が展示されていたのは、笠島地区にある重要伝統的建造物群の旧真木邸であった。保存地区の建造物であるが故の制約がある中で、展示された作品は建築物の持ち味を損なうこともなく、地域や展示空間と誠実に向き合っていたものだった。
たまたま裏口から入ったことで、展覧会の始まりが中屋敷作品からとなった。そして、邸内を行き来している中で、この作品が場所に対して最も異なる質感を持っていたにもかかわらず、非常に場となじんでいたことが印象に残った。また、今回の作品の中で唯一の絵画作品であることから、空間全体のアクセントになっていたとも思う。
展覧会画像




先述したように、私は島を訪れる過程まで含めて一つのプロジェクトと捉えていたので、展示作品の少なさをそれほど問題とは思わなかった。しかし、いわゆる現代美術のイベント的なものを期待して来島した人にとっては、作品数が少ないことに物足りなさが残るのではないかとも思った。SAPの趣旨が、まず島(笠島地区)の人々と作家たちとの交流であるにしても、第三者に対して開かれているのだから、来年以降、展示場所も含めて検討の余地はあるのではなかろうか。
ところで、福永作品や彼の「音を撮る」ワークショップの記録から交流があったことがわかるものの、展示全体と交流という趣旨が結びつくものではなかった。むしろ、私が交流について考えるようになったのは、本島を訪れた直後、SAPのホームページを読み、また、今回原稿を書くにあたり再読することによってである。


かつて瀬戸内交易で栄えた本島の人たちにとって、交流とは自らのルーツと言えるものだ。時代の変化から人口が少なくなった今でも、なにがしかの交流を求めている人はいるだろう。しかし、いわゆる現代美術の作家たちとの交流を望んでいる人がいたのだろうか。否、そもそも「現代美術」やその作り手の存在自体、人々の意識の外にあったのではないかと思う。
SAP代表の梅谷さんに聞いたところでは、プロジェクトを進めていく過程で、例えば、レジデンスやワークショップという言葉が島の人には通じなかったとのことだった。違った価値観を持つ者同士が交流をはかるためには、まずそれぞれの価値観を相手に伝わるようにすることが必要になる。このことは本島が特別なのではなく、どこの地域、場所にでも存在する問題でもある。島という地勢から問題が見えやすくなったに過ぎない。
さらに、福永信氏の「笠島日記」で触れられているのは、プロジェクトのためにレジデンスして島の人々と交流するとはどういうことかとか、どのようなワークショップが可能かといった模索の過程であった。ある意味、プロジェクトにとってはこの過程が11月の本番と同様に重要だったではないかと思える。あるいは、このプロジェクトが今後も継続していくものであると考えれば、まだ土地をならして種を蒔いた段階くらいなのかも知れない。交流によって新しい価値観が生み出されることへ向けての。
もっとも、交流するもう一方の側である島の人々のことを私は知らない。ただ、「笠島日記」の中に印象に残ったエピソードがある。福永氏の好きなひらがなを一文字書いて欲しいという希望に対して、「大」と書いた人や「きびう」と書いた人のことだ。彼らが趣旨を理解しなかったというよりは、何か文字を書くにあたってこれらの言葉がこぼれてきたように感じたからである。それぞれの言葉の背景はわからない。しかし、わからないが故に、私のSAPへの関心も続いているのである。
2009年05月27日
アーティスト・イン笠島~記憶の集積を創造の海へ
書籍では第四部にはいる池田剛介(孔介)氏による美術批評です。
『これはサイトスペシフィックではない』
2006年十一月二十三日、私は丸亀からのフェリーに揺られ、本島という瀬戸内の小さな島を訪れました。島内の笠島地区でのアーティスト・イン・レジデンス成果発表会場へ向かう道すがら、私の頭にはすでに、「場所」とは何か、サイトスペシフィックとは何か、という問題が据えられていました。 作家がある「地域」へ出向き、「アーティスト・イン・レジデンス」しつつ、「ワークショップ」も催す、とこれだけの語が並べられれば誰でも、 少なくとも現代美術に関わっている人間にとっては誰でも、上のような問題を真っ先に思いつくことになります。ただ、そこに何らかの違和感がなかった訳ではなく、とりわけ福永信という名は、私の考える限り、サイトスペシフィックなる言葉——場の固有性と向かい合い、その特殊性を強調する、その語と容易に結びつくような対象ではありませんでした。
「笠島日記」、それを福永の作品として私が接した際、やはり同様の違和を感じざるを得ませんでした。私はこれまで、ある一定の関心を持って福永の小説に触れてきており、そのいくつかは別の場所で論じてもいます 。作家本人からは「事実として起こった事は小説に書かない」という事をよく聞いている、とすれば、ますますこのテクストは小説から遠ざかるように思えるでしょう。 にも関わらず、インターネット上に公開されていった日記は、単なる活動のルポタージュの枠を超え、彼の小説のあり方をも逆照射しているようにすら思えるのです。端的に言って、「笠島日記」は福永信のこれまでのテクストと決定的に違っています。この違いを見据えること、いわば前者と後者との視差を基に「アーティスト・イン・笠島」プロジェクトの意義を捉えること、これこそが本論の中で目指されています。
■ 鏡としての小説
通常の小説は、最良の作品に限られるであろうが、その作品を通じて外界をヴィヴィッドに映します。作家の感性を媒介として見られた世界が、紋切り型のイメージに回収される事なく生き生きと描写される時、読者は文字どおり本を「通じて」その構築された外界と接する事となります。このような特性は、少なくとも現代の表現としては、文学というメディウムに顕著なものだといえるでしょう。他の多くのメディア、例えば美術においては、20世紀を経て徹底した抽象化が進められてきており、外界を写し取る媒体としての特性は失ってゆきました。対して、文学は言葉を表現の手段として用いている限り、美術でいうような意味での抽象化を徹底する事は困難であり、もしもそれを進めるとすれば言葉はやがて解体され、文字の音を作品の主たる構成要素して扱う詩というメディウムの方へと向かう事となるでしょう。 小説」や「詩」などというジャンル的区分に本質的な意味を認めるべくもないですが、さしあたりこのような線引きは、近代以降、文学を考える上での前提だともいえます。未だその物語性を失っていないメディウムとしての文学。読者はいわば小説という「窓」を通じ、その世界観に触れる。できうる限りこの窓を磨き、透明化し、読者と外界との距離を近づけてゆく事こそが、良質な文学の一つの条件として認識されています。
ところが、福永信という小説家は様々な形で、このような小説の特性を切断する事を試みているように思えます。外界へ開かれた窓を傷つけ、あるいは何か別のものに入れ変えることによって、従来の小説の条件そのものを問おうとします。いわゆる「詩」的な実験において行われるような、言葉の文法的逸脱や、その音声的要素の強調が見られる訳でもなく、むしろ「小説」的な顔貌を常に装いながら、読者の知らぬ間に、何か別のものに変化させてしまっているかのようなのです。
彼のデヴュー短編集『アクロバット前夜』に所収された「読み終えて」を見てみましょう。
冒頭「君は、ねらわれている。」という宣言と共に書き始められるこの作品。「 君」は何らかの理由で何者かに狙われており、「僕」はその「君」へ向けて、仕掛けられた罠へ注意を払うよう、延々と長い手紙を書きます。「君」へと届けられたその手紙を読むように、読者は、小説を読み進める事となる、このような形式自体は夏目漱石「こころ」に代表されるように、珍しいものではありません、しかしながら、驚きは小説の終わりにやってきます。
「ここまで読んだ君になら僕の言おうとしていることがわかるだろう。この手紙の長さの意味がわかるだろう。この手紙を読んでいる間、君はその時間の分だけ、その日の、いつもの君の行動から遅れているのだ。その時間はただこれを読んでいた時間だ。そして読んでいた時間だけ、遅れた分だけ、予測され仕掛けられた罠を、ズラし、使いものにできなくするのだ。」(読み終えて)
「君」が手紙を読んでいた時間の消費こそが、この手紙が機能する唯一の効果なのであり、それ以外のものではない。手紙の中で延々と語られていた襲撃者の行為やそれに対する注意の喚起は、単に「読む」という行為を通じて現実的に時間を遅らせるためのものに他ならなかった。この時、小説内における「君」と読者との位置がピタリと一致します。手紙を読んでいた「君」へと与えられた時間の消費は、そっくりそのまま読者がそれまで小説を読んできた、その時間的消費へと重ねられます。透明な窓として物語を開示してきた小説が、突如、鏡へと変貌し、読者の姿、すなわち、いまここで私が読んでいる、その行為自体を強烈に映し出します。
読むことの意味が、端的に「時間稼ぎ」という目的に還元され、読んだ内容に先立つことを知らされたその時、小説の読者もまた、作品を読むために一定の時間を費やされていたという事実に蹴躓かされるでしょう。ここにおいて「読む」という経験は、小説を通じて外界ないし物語ではなく、読者自身がここで本を読んでいた、その現実的な時間の厚みこそを見させることとなるのです。
このような福永作品の「鏡」的傾向を示すために、もう一つの例を挙げておきましょう。短編集『コップとコッペパンとペン』所収の同名作品、その題の内には二つの「と」が含まれています。
早苗が図書館で見知らぬ男に話しかけられ緊張が高まったかと思えば、次の段落で彼らは夫婦となり早苗は妊娠している、と思えばすぐさま早苗は帰らぬ人となっており、早苗の娘は失踪した父を捜し始める。こういった具合に、小説内の諸出来事は十分な因果関係を欠いたまま接続されています。ここでは時間的、空間的な大きな飛躍が、その記述の分量と釣り合わない形で唐突に提示されている点に注視されなければなりません。先に記したような物語展開におけるあまりにも大きな文脈的飛躍は、複数の出来事間のズレ、その断面を読者に露にします。ある主体が何かを始めたかと思えば、その彼/彼女は消え去り、小説内の語りは、主要な主体をまた新たに見つけ出し、しかしその新たな主体もまた直ちに消え去り、小説はまた別の行為主体へと目を向けざるを得ない。ある主体「と」別の主体「と」、またさらに別の主体「と」…いうように、ここで見いだされるものは複数の人物と彼らをめぐる出来事間の断面、接続詞「と」そのものであり、確固たる主体が設定され得ない非人称的な次元というべきものなのです。
そもそもこの小説の題は「コップとコッペパンとペン」というのですが、これらの三つの要素のうちの二つは「いい湯だが電線は窓の外に延び、別の家に入り込み、そこにもまた、紙とペンとコップがある。この際どこも同じと言いたい。」という不可解な書き出しにおいて現れるものの、コッペパンというモチーフは一切、小説内に現れて来ない、むしろそれは純粋にコップ「と」ペン「と」をつなぐ音として挿入されているのだと考えるべきでしょうか。
コップとペンとをコッペパンがつなぐ。様々な主体が次々に移り行くこの小説において、様々に舞台は展開していくが、結局のところ「どこも同じ」。そこにあるのは登場人物でも、その背景となる場所でもない、単なるつなぎ目としての「と」、すなわち諸出来事間の蝶番のみなのです。このような、およそ一般的な意味においての小説の展開としては「不自然」な接続部の露呈は、読者の物語への感覚的没入を絶えず阻害し、読書という行為そのものへの認識へと、常に読者の意識を立ち返すことを強いるでしょう。眼前の小説、窓として本の向こうの世界を開いていた小説が、ここにおいて鏡へと姿を変え、読者の行為そのものを映して止まなくなるのです。
■ 笠島日記、遍在する窓としての
このように、読むことの行為それ自体を映し出す鏡としての小説を発表し続けてきた作家にして、この「笠島日記」は、非常に一般的な文学的特質、つまり外界を映す窓にも似た性質を保持しているように思えます。小説というものがある一定のフィクション性を前提とするならば、差し当たって日記文学や紀行文との類比で「普通」に読む事ができるでしょう。作家がフィルターとなって、我々読者は島で起こった出来事を知る、つまり、文章が透明な窓となり、読者を外界へと導いてゆく、というわけです。
しかし先述したように、この作家は小説の物語構造や物体的特性に対し極めて意識的な人間であり、そのような作家が、笠島日記が発表された媒体のあり方に対して無意識的であるはずもないでしょう。公開されたのはインターネットというメディウムであり、それはあらゆる場所から、この文章へとアクセスする事を可能にするものです。
小説家、福永信は2006年9月28日、十五日間の本島は笠島地区での滞在を開始します。当然の事ながら活動自体に何らかの成果を要請される、そのような与えられた役割に対する不安を隠そうともせず、インターネットを通じて、日記形式で公開してゆきます。
「いつもここで海を見ているんですか、と聞いてみる。滞在中は島の人たちと交流をもって下さいといわれているのである。『交流』といわれても全然絵が浮かばない。というか絵に描いたような交流の図しか浮かばす、右のような質問になったのだ。」(9/29の日記より)
滞在当初、大まかな活動プランのみを用意し島を訪れた福永は、交流のあり方そのものに多いに戸惑い、しかし、その戸惑いを孕んだ出来事そのものに何らかの意味を見いだすかのように、丹念に日記に書き付けてゆきます。ほとんど手ぶら状態でやってきた小説家の、その手持ち無沙汰な感覚、そして、何らかの結果が求められる状況への逡巡。そのような、何もない手ぶらな中から開始された笠島での滞在に何かしらの手応えを求めるかのように、人々との交流のかけらを収集してゆくことを思い立ちます。
「本島に入って三日目になって、ワークショップのプランを大幅に変えた。 (…) 実際にこの場所に来てみて、おじいさんおばあさんたちと言葉を交わすうちに、これはちがうな、集まって限定された時間の中で何か作業をする、そういうことではないなと思えてきた。(…)らくがき帳が置いてあるのがたまたま目にとまった。よし、これを使わせてもらおう。」
読者からすれば、なんとまあ行き当たりばったりな、と思う他ないのですが、ともかくもこのようにして、 らくがき帳の各ページに、ひらがな一文字を書いてもらう活動が開始されます。
画用紙に書かれてゆく数々のひらがな、それは島の中で福永信という人物を通じ、島民との対話、交流を通じて集められたものです。ひらがな一文字はそれ自体として何ら意味をもたず、あくまで断片に留まるほかない。さらに、小中学校では生徒と共に「音を撮る」というテーマのもとワークショップが行われ、インスタントカメラを手にした一人一人が、それぞれの視点で見つけ出した島の中の音のかけらを拾い集めてゆく。これらの経緯を記録し続けた「笠島日記」にもまた、島で起こる出来事のささいな断片が綴られ、少しずつ、日々記される分量も増えてゆきます。
「笠島日記」を通じて立ち現れるのは、福永という作家によって経験された、断片的な場所の記録なのであって、それが笠島という名と強く結びついて現れるという事はありません。そこで描かれる出来事は、まさに福永が「笠島日記を書き終えて」にて記しているように「どこにでもありそうな、そして実際にどこにだってある」ものなのでしょう。であるとすれば、インターネットという空間、どこからでもアクセスし得る空間に公開された日記を通じて私たちがたどり着く場所もまた、どこにでもありえる場所なのだと言えます。あらゆる場所に遍在する窓のむこうに「どこか」を見いだすこと、これこそがインターネット上で公開された「笠島日記」の特徴を為しており、それは一般的な小説の特性としての「窓」的な性質とも、福永の小説に見て取った「鏡」的な性質とも決定的に異なっています。
結ばれ、そして、ほどかれる
「笠島日記」追記の中で、この小説家は、なにやら重たい紙袋と共に本島へ再来するでしょう。作家の手にはワークショップに参加した生徒や先生たちに撮ってもらった数多くの写真、 十五日間の日記を凝縮した文章を一文字一ページにプリントアウトし、その所々に書いてもらったひらがなが散りばめられた全九巻もの手作り本。 無意味なまでに「重い」全九巻もの書物となった「笠島日記」は、原稿用紙五枚足らずの文章として編集されています。これらの公開と共に、普段ではあり得ないほど、島の内外から子供も大人もが集う、その祭りの日がやってくる。
このように2006年10月23日、二週間の滞在時に集められてきた写真、文字、そして日記までもが一点において交わり、凝集された。古い民家において古い人も新しい人もが集い、出会い、言葉を交わす、この出来事をさしあたりサイトスペシフィックだと考える事は可能でしょう。そうしたこの場所を特別なものとして見なすこともできるかもしれません。しかし、むしろ重要なのはその後、ここで集められたちいさな断片たちが、再び元の場所へと戻ってゆく、このことにあるのではないでしょうか。集められた写真は、撮影者それぞれが持ち帰り、出会いを通じて書かれた一つ一つのひらがなも、凝縮された日記と同様に、この場に集った読者の記憶のかけらなってバラバラに散逸してゆく。つかの間のにぎわいを見せたこの場所、真木邸にその後、何が残るという訳でもないのです。
結ばれた一点が、ここで再びほどかれる。いや、むしろそれは、ほどかれるためにこそ結ばれたのだと言うべきでしょう。そこにあったのは小さな、しかし、確かな波です。出来事のささやかな記憶のみを運び、何も残さず消え去ってしまうような波。そうしてこの場は、再び、「どこにでもありそうな、そして実際にどこにだってあるだろう」場所へと戻ってゆく。「笠島日記」はこのような、場所の遍在性へ向けて書かれていたのであり、その窓の向こうに見える、どこででもありうる場所へと読者を開いてゆくのです。これはサイトスペシフィックではない。あらゆる場所からあらゆる場所へ通じる窓、このような透明な窓こそが「アーティスト・イン・笠島」というプロジェクトがもたらした、目に見えない作品なのであり、 どこでもないが、しかしどこかに残された、唯一のものであるのかもしれません。
池田剛介
『これはサイトスペシフィックではない』
2006年十一月二十三日、私は丸亀からのフェリーに揺られ、本島という瀬戸内の小さな島を訪れました。島内の笠島地区でのアーティスト・イン・レジデンス成果発表会場へ向かう道すがら、私の頭にはすでに、「場所」とは何か、サイトスペシフィックとは何か、という問題が据えられていました。 作家がある「地域」へ出向き、「アーティスト・イン・レジデンス」しつつ、「ワークショップ」も催す、とこれだけの語が並べられれば誰でも、 少なくとも現代美術に関わっている人間にとっては誰でも、上のような問題を真っ先に思いつくことになります。ただ、そこに何らかの違和感がなかった訳ではなく、とりわけ福永信という名は、私の考える限り、サイトスペシフィックなる言葉——場の固有性と向かい合い、その特殊性を強調する、その語と容易に結びつくような対象ではありませんでした。
「笠島日記」、それを福永の作品として私が接した際、やはり同様の違和を感じざるを得ませんでした。私はこれまで、ある一定の関心を持って福永の小説に触れてきており、そのいくつかは別の場所で論じてもいます 。作家本人からは「事実として起こった事は小説に書かない」という事をよく聞いている、とすれば、ますますこのテクストは小説から遠ざかるように思えるでしょう。 にも関わらず、インターネット上に公開されていった日記は、単なる活動のルポタージュの枠を超え、彼の小説のあり方をも逆照射しているようにすら思えるのです。端的に言って、「笠島日記」は福永信のこれまでのテクストと決定的に違っています。この違いを見据えること、いわば前者と後者との視差を基に「アーティスト・イン・笠島」プロジェクトの意義を捉えること、これこそが本論の中で目指されています。
■ 鏡としての小説
通常の小説は、最良の作品に限られるであろうが、その作品を通じて外界をヴィヴィッドに映します。作家の感性を媒介として見られた世界が、紋切り型のイメージに回収される事なく生き生きと描写される時、読者は文字どおり本を「通じて」その構築された外界と接する事となります。このような特性は、少なくとも現代の表現としては、文学というメディウムに顕著なものだといえるでしょう。他の多くのメディア、例えば美術においては、20世紀を経て徹底した抽象化が進められてきており、外界を写し取る媒体としての特性は失ってゆきました。対して、文学は言葉を表現の手段として用いている限り、美術でいうような意味での抽象化を徹底する事は困難であり、もしもそれを進めるとすれば言葉はやがて解体され、文字の音を作品の主たる構成要素して扱う詩というメディウムの方へと向かう事となるでしょう。 小説」や「詩」などというジャンル的区分に本質的な意味を認めるべくもないですが、さしあたりこのような線引きは、近代以降、文学を考える上での前提だともいえます。未だその物語性を失っていないメディウムとしての文学。読者はいわば小説という「窓」を通じ、その世界観に触れる。できうる限りこの窓を磨き、透明化し、読者と外界との距離を近づけてゆく事こそが、良質な文学の一つの条件として認識されています。
ところが、福永信という小説家は様々な形で、このような小説の特性を切断する事を試みているように思えます。外界へ開かれた窓を傷つけ、あるいは何か別のものに入れ変えることによって、従来の小説の条件そのものを問おうとします。いわゆる「詩」的な実験において行われるような、言葉の文法的逸脱や、その音声的要素の強調が見られる訳でもなく、むしろ「小説」的な顔貌を常に装いながら、読者の知らぬ間に、何か別のものに変化させてしまっているかのようなのです。
彼のデヴュー短編集『アクロバット前夜』に所収された「読み終えて」を見てみましょう。
冒頭「君は、ねらわれている。」という宣言と共に書き始められるこの作品。「 君」は何らかの理由で何者かに狙われており、「僕」はその「君」へ向けて、仕掛けられた罠へ注意を払うよう、延々と長い手紙を書きます。「君」へと届けられたその手紙を読むように、読者は、小説を読み進める事となる、このような形式自体は夏目漱石「こころ」に代表されるように、珍しいものではありません、しかしながら、驚きは小説の終わりにやってきます。
「ここまで読んだ君になら僕の言おうとしていることがわかるだろう。この手紙の長さの意味がわかるだろう。この手紙を読んでいる間、君はその時間の分だけ、その日の、いつもの君の行動から遅れているのだ。その時間はただこれを読んでいた時間だ。そして読んでいた時間だけ、遅れた分だけ、予測され仕掛けられた罠を、ズラし、使いものにできなくするのだ。」(読み終えて)
「君」が手紙を読んでいた時間の消費こそが、この手紙が機能する唯一の効果なのであり、それ以外のものではない。手紙の中で延々と語られていた襲撃者の行為やそれに対する注意の喚起は、単に「読む」という行為を通じて現実的に時間を遅らせるためのものに他ならなかった。この時、小説内における「君」と読者との位置がピタリと一致します。手紙を読んでいた「君」へと与えられた時間の消費は、そっくりそのまま読者がそれまで小説を読んできた、その時間的消費へと重ねられます。透明な窓として物語を開示してきた小説が、突如、鏡へと変貌し、読者の姿、すなわち、いまここで私が読んでいる、その行為自体を強烈に映し出します。
読むことの意味が、端的に「時間稼ぎ」という目的に還元され、読んだ内容に先立つことを知らされたその時、小説の読者もまた、作品を読むために一定の時間を費やされていたという事実に蹴躓かされるでしょう。ここにおいて「読む」という経験は、小説を通じて外界ないし物語ではなく、読者自身がここで本を読んでいた、その現実的な時間の厚みこそを見させることとなるのです。
このような福永作品の「鏡」的傾向を示すために、もう一つの例を挙げておきましょう。短編集『コップとコッペパンとペン』所収の同名作品、その題の内には二つの「と」が含まれています。
早苗が図書館で見知らぬ男に話しかけられ緊張が高まったかと思えば、次の段落で彼らは夫婦となり早苗は妊娠している、と思えばすぐさま早苗は帰らぬ人となっており、早苗の娘は失踪した父を捜し始める。こういった具合に、小説内の諸出来事は十分な因果関係を欠いたまま接続されています。ここでは時間的、空間的な大きな飛躍が、その記述の分量と釣り合わない形で唐突に提示されている点に注視されなければなりません。先に記したような物語展開におけるあまりにも大きな文脈的飛躍は、複数の出来事間のズレ、その断面を読者に露にします。ある主体が何かを始めたかと思えば、その彼/彼女は消え去り、小説内の語りは、主要な主体をまた新たに見つけ出し、しかしその新たな主体もまた直ちに消え去り、小説はまた別の行為主体へと目を向けざるを得ない。ある主体「と」別の主体「と」、またさらに別の主体「と」…いうように、ここで見いだされるものは複数の人物と彼らをめぐる出来事間の断面、接続詞「と」そのものであり、確固たる主体が設定され得ない非人称的な次元というべきものなのです。
そもそもこの小説の題は「コップとコッペパンとペン」というのですが、これらの三つの要素のうちの二つは「いい湯だが電線は窓の外に延び、別の家に入り込み、そこにもまた、紙とペンとコップがある。この際どこも同じと言いたい。」という不可解な書き出しにおいて現れるものの、コッペパンというモチーフは一切、小説内に現れて来ない、むしろそれは純粋にコップ「と」ペン「と」をつなぐ音として挿入されているのだと考えるべきでしょうか。
コップとペンとをコッペパンがつなぐ。様々な主体が次々に移り行くこの小説において、様々に舞台は展開していくが、結局のところ「どこも同じ」。そこにあるのは登場人物でも、その背景となる場所でもない、単なるつなぎ目としての「と」、すなわち諸出来事間の蝶番のみなのです。このような、およそ一般的な意味においての小説の展開としては「不自然」な接続部の露呈は、読者の物語への感覚的没入を絶えず阻害し、読書という行為そのものへの認識へと、常に読者の意識を立ち返すことを強いるでしょう。眼前の小説、窓として本の向こうの世界を開いていた小説が、ここにおいて鏡へと姿を変え、読者の行為そのものを映して止まなくなるのです。
■ 笠島日記、遍在する窓としての
このように、読むことの行為それ自体を映し出す鏡としての小説を発表し続けてきた作家にして、この「笠島日記」は、非常に一般的な文学的特質、つまり外界を映す窓にも似た性質を保持しているように思えます。小説というものがある一定のフィクション性を前提とするならば、差し当たって日記文学や紀行文との類比で「普通」に読む事ができるでしょう。作家がフィルターとなって、我々読者は島で起こった出来事を知る、つまり、文章が透明な窓となり、読者を外界へと導いてゆく、というわけです。
しかし先述したように、この作家は小説の物語構造や物体的特性に対し極めて意識的な人間であり、そのような作家が、笠島日記が発表された媒体のあり方に対して無意識的であるはずもないでしょう。公開されたのはインターネットというメディウムであり、それはあらゆる場所から、この文章へとアクセスする事を可能にするものです。
小説家、福永信は2006年9月28日、十五日間の本島は笠島地区での滞在を開始します。当然の事ながら活動自体に何らかの成果を要請される、そのような与えられた役割に対する不安を隠そうともせず、インターネットを通じて、日記形式で公開してゆきます。
「いつもここで海を見ているんですか、と聞いてみる。滞在中は島の人たちと交流をもって下さいといわれているのである。『交流』といわれても全然絵が浮かばない。というか絵に描いたような交流の図しか浮かばす、右のような質問になったのだ。」(9/29の日記より)
滞在当初、大まかな活動プランのみを用意し島を訪れた福永は、交流のあり方そのものに多いに戸惑い、しかし、その戸惑いを孕んだ出来事そのものに何らかの意味を見いだすかのように、丹念に日記に書き付けてゆきます。ほとんど手ぶら状態でやってきた小説家の、その手持ち無沙汰な感覚、そして、何らかの結果が求められる状況への逡巡。そのような、何もない手ぶらな中から開始された笠島での滞在に何かしらの手応えを求めるかのように、人々との交流のかけらを収集してゆくことを思い立ちます。
「本島に入って三日目になって、ワークショップのプランを大幅に変えた。 (…) 実際にこの場所に来てみて、おじいさんおばあさんたちと言葉を交わすうちに、これはちがうな、集まって限定された時間の中で何か作業をする、そういうことではないなと思えてきた。(…)らくがき帳が置いてあるのがたまたま目にとまった。よし、これを使わせてもらおう。」
読者からすれば、なんとまあ行き当たりばったりな、と思う他ないのですが、ともかくもこのようにして、 らくがき帳の各ページに、ひらがな一文字を書いてもらう活動が開始されます。
画用紙に書かれてゆく数々のひらがな、それは島の中で福永信という人物を通じ、島民との対話、交流を通じて集められたものです。ひらがな一文字はそれ自体として何ら意味をもたず、あくまで断片に留まるほかない。さらに、小中学校では生徒と共に「音を撮る」というテーマのもとワークショップが行われ、インスタントカメラを手にした一人一人が、それぞれの視点で見つけ出した島の中の音のかけらを拾い集めてゆく。これらの経緯を記録し続けた「笠島日記」にもまた、島で起こる出来事のささいな断片が綴られ、少しずつ、日々記される分量も増えてゆきます。
「笠島日記」を通じて立ち現れるのは、福永という作家によって経験された、断片的な場所の記録なのであって、それが笠島という名と強く結びついて現れるという事はありません。そこで描かれる出来事は、まさに福永が「笠島日記を書き終えて」にて記しているように「どこにでもありそうな、そして実際にどこにだってある」ものなのでしょう。であるとすれば、インターネットという空間、どこからでもアクセスし得る空間に公開された日記を通じて私たちがたどり着く場所もまた、どこにでもありえる場所なのだと言えます。あらゆる場所に遍在する窓のむこうに「どこか」を見いだすこと、これこそがインターネット上で公開された「笠島日記」の特徴を為しており、それは一般的な小説の特性としての「窓」的な性質とも、福永の小説に見て取った「鏡」的な性質とも決定的に異なっています。
結ばれ、そして、ほどかれる
「笠島日記」追記の中で、この小説家は、なにやら重たい紙袋と共に本島へ再来するでしょう。作家の手にはワークショップに参加した生徒や先生たちに撮ってもらった数多くの写真、 十五日間の日記を凝縮した文章を一文字一ページにプリントアウトし、その所々に書いてもらったひらがなが散りばめられた全九巻もの手作り本。 無意味なまでに「重い」全九巻もの書物となった「笠島日記」は、原稿用紙五枚足らずの文章として編集されています。これらの公開と共に、普段ではあり得ないほど、島の内外から子供も大人もが集う、その祭りの日がやってくる。
このように2006年10月23日、二週間の滞在時に集められてきた写真、文字、そして日記までもが一点において交わり、凝集された。古い民家において古い人も新しい人もが集い、出会い、言葉を交わす、この出来事をさしあたりサイトスペシフィックだと考える事は可能でしょう。そうしたこの場所を特別なものとして見なすこともできるかもしれません。しかし、むしろ重要なのはその後、ここで集められたちいさな断片たちが、再び元の場所へと戻ってゆく、このことにあるのではないでしょうか。集められた写真は、撮影者それぞれが持ち帰り、出会いを通じて書かれた一つ一つのひらがなも、凝縮された日記と同様に、この場に集った読者の記憶のかけらなってバラバラに散逸してゆく。つかの間のにぎわいを見せたこの場所、真木邸にその後、何が残るという訳でもないのです。
結ばれた一点が、ここで再びほどかれる。いや、むしろそれは、ほどかれるためにこそ結ばれたのだと言うべきでしょう。そこにあったのは小さな、しかし、確かな波です。出来事のささやかな記憶のみを運び、何も残さず消え去ってしまうような波。そうしてこの場は、再び、「どこにでもありそうな、そして実際にどこにだってあるだろう」場所へと戻ってゆく。「笠島日記」はこのような、場所の遍在性へ向けて書かれていたのであり、その窓の向こうに見える、どこででもありうる場所へと読者を開いてゆくのです。これはサイトスペシフィックではない。あらゆる場所からあらゆる場所へ通じる窓、このような透明な窓こそが「アーティスト・イン・笠島」というプロジェクトがもたらした、目に見えない作品なのであり、 どこでもないが、しかしどこかに残された、唯一のものであるのかもしれません。
池田剛介