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2009年05月27日

地域とアート4 本島での活動 福永信

アーティストイン笠島~『記憶の集積を創造の海へ』の初稿です。


2006年10月x日 海が見える大倉邸にて
『高島昭夫さんをかこんで』

聞き手 SAW
                               福永信



 本島町笠島地区の小高い丘陵部に中世の城跡がある。笠島地区は、城下町としての雰囲気が残る集落であり、天然の港を活かした瀬戸内の港町として、国の伝統的建造物群保存地区に選定された。保存地区の中心部マッチョ通り(町通りの転訛でこう呼ばれる)の門に真木(さなぎ)邸がある。現在は、笠島まち並保存センターとして公開している。
高島さんは、保存センターの館長として、また笠島地区の自治会長としてSAWの相談役、調整役として、なにかとお世話いただいている方である。現役の笠島大工さんでもあるそうだ。そこで日中はご多忙でお話を伺う機会がないため、夕食を共にしながら、笠島の歴史、高島さんの個人的な記憶について、お話を伺おうと私たちの宿舎となっている大倉邸にお招きした。

自分でもかわりもんじゃと思っとるのよ。仕事の場合は、本職の大工の場合ですよ、これは自分の意地をとおす。でも、いまの仕事、これはとおせません。まち並保存センターの仕事とか、(笠島の)自治会長とか。自分の意見をおさえても、ひとの意見をとりいれないと、と思ってます。若いひとたちから見て、ここ、笠島はどうですか。
一寸ととおっただけでも、雰囲気がわかると思うが、笠島はどういう感じがするか。観光客のひとにも聞くんです。なるべく、みなさん、来てくれたひとにね、へんな感じをさせないような方法をとらないといかんなあ、と。笠島に関しては、きれいでしずかでいいですなあということをいうてくれるひとも多いですが……。家に入っても、あるじゃない。その家に入っただけでも、雰囲気がある。どうもよくないとか、いちばんはじめに一歩ふみこんだときね。
家を建てるとか、修理に入る場合、その家の雰囲気はぜんぶわかるんです。そうしないと修理できません。炊事場も風呂も見るわけですから。そのひとの趣味にあわせないといけないし、ここは夫婦仲がわるいなとか(笑)。その家庭の、ひとのふんどしにあうように修理しなきゃならん。
まち並保存センターでも、お客さん少ないじゃないの。それで、お客さんのほうが気いつこうとることがあるよ。けど、それじゃいけません。自分も(センターの仕事を)やめようと思うけれども、代わりがないわけ。説明が下手でもいいんだけれども、ちゃんとできるひとがなかなかいない。いや、わしもながいことはないんよ。いま、三年め。二年くらい前は、本職しとりました。
本職の大工とはまったくちがう仕事ですが、ただ幸いかな、これまでの仕事のなかで案外、高等教育を受けているひとと話すことが多かったから、(お客さん相手に話すことの多い保存センターの仕事は)べつだん物怖じもせず、こなすことができているかな。
そやなあ。おとぎばなしを話して聞かせるような感じ、バスガイドが説明するような、「右に見えるのはなになにです」というのじゃなくて、おたがいに対話するような感じを心がけておるよ。それで、おおまかなセンだけをいえばいいんじゃないかなと思って、それをモットーにしているわけじゃな。こまこういうと、質問されて返事にもこまるし(笑)。とってつけたことばじゃなくて、そのままのことばでいいんだから。近所のひとと話すようにすればいいんだ。
そうはいっても、「お前うまげにいいよるとくらっしゃげるぞ」とかいうと、逃げてしまう(笑)。これは、まあ、「うまいことばっかりいうとなぐるぞ」ということだけど(笑)。ほかにも、「おえん」は、だめだ、ということですが、「へらこい」(けちんぼう)とか。「こすい」(づるかしこい)とか。でも本島の言葉はいろいろまじっとる。岡山言葉も、関東も、上方も、いろいろなひととつきあってきとるから。わたしらのことばはいろいろミックスしとる。とくに笠島と泊は、むかしながらのことば、すくないな。阪神方面への出入りがあるから。
ここの歴史はそういうものであって、端から端まで見通しがきかないとか、枝道が多いとか、きちんとした交差点になっていないというのは、塩飽水軍のなごり。「マッチョ通り」は、「町通り」。これも方言といえるかな。あんたらが聞き取りにまわるんでも、笠島でも西の方は、漁師の言葉が出てくるよ。

まあ、話があっちゃこっちゃするが、そういうふうにおとぎばなしのようにお客さんと話していると質問のほうも、多なってくる。いま話しているようにね。ある程度、だから知っとかなきゃいかん。お客さんが来んで、ねころんで本読んでいるのも、いろいろ知ろうとしているわけ。千五百何年というより、四百年前ですといったほうがわかりよい。「塩飽水軍」というとき、水軍という言葉についての説明もいる。ふつう水軍いうたら海賊となるんですが、ここの水軍は海賊ではないんです。ここの水軍は商船、貨客船というかな、いまでいや、フェリーでしょう。そういう水軍やな。そやけども、八百年前、それくらいになったら愛媛、尾道のあいだの村上水軍と海賊行為もしていた。交通料金をはらわんだら強奪するとかそういうこともあった。けれども基本は商船、輸送船、そういう水軍。真木信夫さんの『塩飽海賊史』という本には、ここのひとたちは海賊のように船をあやつっていたという意味だと聞いている。
水軍というのは軍のように隊をなしていることで、塩飽としての水軍。本島をふくめて塩飽諸島の七つの島、塩飽七島で水軍だった。八百年前にはそうした海賊行為や、法然上人が島流しにあって、ここのお城の住人が見つけて今は専称寺になっている庵に接待したといういわれがある。四百年前は戦国時代、秀吉、家康の時代です。海賊禁止令なんか出るけど、塩飽水軍の船頭たちは、大きい船だろうが、小さいのだろうが、うまくあやつることから、信用を得て国のおかかえになる。仕事もふえていそがしくなっていった。専属の回船業になったわけ。手当てというか、千二百五十石の土地をもらい、自治領になったわけです。人名制という独自の制度もできた。帆で走るんですから、全国に行って、帰ってくるには、ひと月もふた月も十分にかかる。船の修理もいる、そこで船大工も増えていったわけです。みんなふところかがよくなって、お寺にしても、この狭い島に二十四できたわけです。それが、十、いまは。住職さんがいるのは、もっとすくない。
流行ると、いまでもそうだが、真似をするところがでてくる。で、この回船業はもうかるなあ、ということがあって、するとあとからでてくるほうが優勢になってしまう。前からの水軍はすたれてくる。本土のほうがいいということにもなってくる。それで権利を大阪の回船業者にゆずってしまえということになったのが、二百八十年ほど前。船頭は船といっしょに行ってしまうからいいけど、船大工は失業してしまった。
船大工は、そこから家を建てる大工に変更します。技術的にむずかしいのだけど、その時代、家を建てるときに手伝いに行ってたりして交流があってうまく転換ができた。
家の大工になると、島のなかで仕事がいつもあるわけじゃないから、出稼ぎにいくようにもなった。塩飽水軍だったのが、塩飽大工として、こんどは出て行くことになったんですね。そいで、そのようにしていって、善通寺の五重塔、丸亀の山北神社、岡山の、これは国宝になってますが、吉備津神社、国分寺の五重塔といった宮大工としても、塩飽大工が名をはせたということじゃな。一所懸命はたらいたものですから、それでまたふところがよくなったし、出先で土地を買い、家を建て、生活できるようにする、女房、子供を呼ぶ、島の家はだんだん閉まっていく。そして現在にわたって空き家が多い。阪神方面に出ているひと、多いです。簡単にいえば、そういうことなんです。

わしも島から出て、神戸に住んどったのよ。これは家族で住んでた。この島で生れて、神戸に行って、もどってきたわけ。親父は船員だった。
食事も何も配給制になって、ひさしぶりに外食に出て、何か食べようと親父がいったことがありました。神戸に住んどったから、阪急会館の食堂でランチをたのんだわけ、コースで。たのんだはいいけど、「あら、お父さんこれどうしたん。となりのひとはお米のごはん食べてる。ぼくたちのはうどんのごはんだよ」、子供だからそういったの。干しうどんを細かく切ってむしたのがでてきた。親父は、「うっかりしてた、AランチとBランチがあった、これはBランチだ」(笑)。ごはんの代わりにうどんがでるような時代なんです。そのような調子でおったわけですが、疎開せにゃならんという。第一番の空襲がきたわけだ。みんな疎開しないといけない。で、(国民学校の)五年生のときに疎開でもどってきたわけ。
それがもう七十五歳になっとるんだから。いろいろな思い出があるけれども、いいか、わるいか。いまから考えればまあまあよかったんかな。黒いのこれ、開けたら?(福永注・高島さんは未開封のオールドパーを持参して来られ、それがテーブルの上、みんなの目の前にあるのです) 
飲むためにもってきたんやから。ぶどう酒は香りなんかが抜けるけど、これは残っても大丈夫だから。こういうのは、舌のうえにちょっとのっけて、口のなかでもてあそぶ感じでな、ビールみたいにグーッとじゃなくて、舌でころがすような感じで。

まあ、そんな具合で、移り住んだ塩飽大工たちは、移住先に家も建てているから、なかなか帰ってこれない。でも、先祖はこっちに墓があるから盆やなんやかやでもどってきます。空き家でも、雨漏りがあると応急手当てをしていく、そうしてきれいに残っている。
で、昭和六十年の国の伝統的建造物の指定もあって年に二、三軒づつ修理して、徹底的になおした。そしていまのような保存地区ができあがったわけです。まあ、もっといえばあとの維持が大変だ、あるいは空き家対策とかいろいろありますが。
こないだもいったけれども、大工になったのは、本心は高校に行きたいんだけど、行けないな、と。自分のところが裕福でないといけなかった。下宿しなきゃとかあるから。遊んどってはいけないし、それでモノを作るのが好きだから、大工になるか、と。女房の親の世話で、大工になるため岡山に出たわけ、十八のころ。笠島の港から小さい船で出るんだわ。昔は下津井鉄道というのがあったの。軽便鉄道ともいいよったけどね。茶屋町まで行って、茶屋町から、宇野線に乗り換えて岡山駅まで行くと、警察が荷物を全部検査しとる。人前で開けさせられた。そういう時代だったから。
住み込みで、朝起きたんはいいけれども、何もすることがないから新聞を読んでたんですな。そしたら親方から「大工仕事を習いに入った早々、新聞読むとはなにごとだ」と怒られた(笑)。「庭の掃除から風呂から、全部やれ」と。仕事を教えてもらうんだから、しゃあないな、いわれる前に、よし、やるわ、というような調子でやりました。あとになって「お前ほど気がきくやつはおらなんだ」といわれるようになった。
食べることでも、そうで、大工には、家を建てているその家のひとが、昼と晩は食べさせてくれるのよ。新入りだから、いちばん最後、古参のごはんのあと、ようやく自分が食べだしたら、はあ、古参の先輩はもう「おかわり」ゆうとる。親方にしてもよ、こっちが食べかけたら、「おい、そろそろやるぞ」と食べるひまがない(笑)。だから自分が上(親方)になったら食べるときはゆっくり食べよ、と、それだけはいった。年明けして礼奉公一年して、二十二歳のときから、いろいろ岡山で仕事しました。生まれ持った習性というかな、仕事がひとよりずぬけとったんだな、じぶんでいうたら悪いけどもよ。どこいっても、案外スムースに、いい場所いい場所、下っ端の仕事はせずに、家でいえば床の間とかそういう重要なところをまかされた、というわけじゃな。

笠島に帰ってきたのは、たまたま仕事で、「あんたくらいしか、たのむひとおらんけん」といわれてもどってきて、そしたら同じくらいに、まち並み保存地区の修理の仕事が、ちょうど、ずっと仕事が出たわけね。岡山にもどらず、こっちで保存地区の仕事をしてくれ、ということで、いくつか修理を手がけました。まあ、昭和五十八、九年から、もう二十年以上、こっちにおる。どっちむいてもこっちむいても、ふるさと、知っているひとばかり。
自分が昔からの仕事を知っているから思うんだが、このごろのひとの場合はむちゃくちゃなんだ。ビスでとめるとかなんとかして、ほぞ(みぞ)のいれこみとかぜんぜんないわけ。木は乾いてくると、「やせる」というのですが、ちぢんできます。一年経つとぐずぐずになる。いまの住宅は、建ったときはいい。けれど、ぐすぐすになってしまう。ボルト、ナットでしめたとしても、木はやせるもんであって、それは鉄骨であっても、年月がたつとゆるんでくるから。
島の保存地区の家が残っているのは、ゆるみがないということ。一軒の住宅に一年も二年もかける。なんで保存センターが百六十年もつかというとそういうわけなんです。いまは、耐久率は二十年から二十五年になっとるから、ローンがすんだら家もすんだということになってる(笑)。手間をかけたほうがながもちする。つきあいも、だからながくなります。ここの町並みの修理にしても、予算超過しても、自腹きってもやるということになる。図面にでてないことまでやっているということは素人にはわからんだろうけどな。



保存地区は焼き板ということになっていて、焼き板うってますわな。いっけんぼろぼろしそうで、しません。防水、防虫、そういう効果もある。ただ、コストがあがるし、使わないことがある。昔のイメージ、くずれてしまいますよ、と設計士にいったら、あたまかかえておったけどね。いま、焼き板、高いんでね。手で焼くのと、工務店から持ってくる焼き板は、ちがいます、焼いた肌が。工務店のは、鉄板を焼いておしつけるわけ。つまり表面だけです。自分らが焼くのは、板をよく乾燥させて、煙突みたいに三角に組んで立てて、縄でくくる。そして下から火をつけて焼くんですが、そのままだと燃えてしまうから、焼き具合を見ながら適度にまわしていく。そして自分が、このとき、と思ったところで縄をほどいて、水をかける。岡山にいたころは、用水があちこちにあるからそこに放り込む。
姉によくいわれた。「お前こんなていねいにしてたらほかのひとに仕事とられてしまうで」、と。でも、年数が経つほど価値がわかるんやから。「はようできたらええわい」というひとはそういうひとを選べばいい。いまはいないでしょ、焼き板を焼くひと。ぼくは焼くけどさ(笑)。
(構成・福永信)

  


Posted by ギャラリーアルテ at 12:14Comments(0)アートプロジェクト

2009年05月26日

地域とアート3 瀬戸内アートウェーブ 梅谷幾代



さて本島でのアートプロジェクトについて書いていて、ブログが消えてしまうと、めげそうになる。
このプロジェクトは丸亀沖にある本島・笠島地区の国の重要建造物群を拠点に平成18年9月より12月まで実施したアーティストレジデンス活動です。伝統的な建造物を保存するだけでなく、積極的に活用するモデル事業を文化庁が募集し、そのモデル事業として採用され、文化庁委嘱事業として実施しました。

詳細は考察は、後日お話しますが、本日は本島での活動について書いた拙文を掲載します。

プロジェクトについて
SAW代表 梅谷幾代

各地で地域づくりのために、アートを活用した試みが行われている。香川県では、アート拠点を名所化し観光事業の振興による地域経済の活性化を目指している。丸亀市は、駅前に美術館やギャラリーがあるため、国内外から美術鑑賞のための人々が訪れている。しかし、残念なことに地域とアートファンが交流し、浸透するような動きはまだうまれていない。文化芸術を生活の中で楽しむことは人々の潤いになり、幸福感へ通じるひとつの入り口となるが、美術それ自体は生産性はないため、一般的な地域の人々との結びつきは薄く、ある一定の隔たりがある。独創性豊かで新たな価値を生み出す文化芸術活動を市民の活動として定着させることで、はじめてアートを通じて地域が自ら再生し活性化しようとする力となるのだろう。アートを地域の活性化に貢献させるには、地域に浸透させ創造しようとする市民を育てること、この視点が重要だ。
このプロジェクトは、瀬戸内アートウェーブ(SAW)によって本島笠島地区で実施されたアーティスト・インレジデンス活動である。『アーティスト・インレジデンス』とは、アーティストが日常の場所から離れ、ある地域に一定期間滞在しながら場所と関わり、制作するというもので、地域と関わったプログラムが多いことが特徴である。
SAWは、このプロジェクトの目的を「本島ににぎわいを取り戻すこと」や「多くの観光客を招き入れること」とは考えなかった。これは暮らす人と訪れた人との異なる環境や価値観の相互交流である。島の歴史や暮らしに触れることにより新しい価値を発見し、自らの独創的な創作活動を目指すことだった。結果私たちは “豊かさ”の内容や“暮らしやすいまち”の条件を自らに向かって問い直し、幸福の条件について向き合う機会を得ることになった。

■ 瀬戸内アートウェーブ誕生へ

瀬戸内海を臨む四国に生まれ、暮らす私にとって瀬戸内の海が古くから交通の動脈として果たして来た役割を見聞きしている。海を交通路として島には人やものやさまざまな情報が行き来し、内陸部よりも繁栄していた歴史があった。海は、メディアそのものだったのだ。現在、本州と四国は3つの架橋によってつながり、人やものが行き来している。島や海は人々の経済活動から離れ、過疎が進んでいる。島と内陸部の関係に焦点をあてたプロジェクトをいつか実現したいと考えていた。美術を楽しむことと歴史を知ることは、アプローチは異なるが、想像力が刺激される瞬間は同じだ。美術鑑賞を目的に人は美術館を訪れる。ギャラリーを訪れる人は、鑑賞に加え、新しいアートが生まれる現場としてコミュニケーションすることや作り出すこともその目的に含まれる。アートは創造力の源だ。ギャラリーを訪れる人々の思いやエネルギーが集めることはできないだろうか?アーティストのための活動拠点を作ってみてはどうか?その場所をイベントやWebや出版物など様々なメディアを通じて発信するための、共同で運営する活動に育てられないだろうか?瀬戸内海からこの場を共有して、アート活動の発信・受信という双方向の交流をさせたい。すべては、ここからはじまり、見えてきたのが瀬戸内アートウェーブだった。
そこで市にアートプロジェクトを提案し、協力をもとめた。さらに平成18年度から文化庁は、「伝統的建造物活用モデル事業」の事業案を募集していた。地域で活動するNPO等の市民による『人々に親しまれる形での建造物を活用するモデル事業』の募集だった。

■ 本島でのアートプロジェクト

6月10日美術家、大学生、地元に暮らす人々などが集まり、はじめて本島についてのミーティングを行う。文化庁の応募締め切りまで1ヶ月もなかった。翌日名古屋、岡山、香川などからの参加者7名で本島への現地調査を行う。丸亀沖の本島は瀬戸内海のほぼ中央にあり、地理的に重要な場所のため、数多くの文化財が遺されている。お年寄りが多く過疎が進んでいる。児童数も減少し小中学生合わせて36名。島にあった食料品店も無くなり、現在は船で買いに行かなければならない。畑で自給生活のための野菜づくりをしている。この島の人々は、船の漕ぎ手や船大工など技術者が多い。江戸時代中期から造船の技術を活かして全国各地で大工として腕を揮った。結果的にそのまま残った集落が、瀬戸内海の港町として保存された。本島の北東部にある笠島地区は、塩飽水軍の本拠地の港町で、江戸時代頃から廻船問屋が立ち並んだにぎやかな場所だった。通りに面して丸亀市が保有している旧真木邸と呼ばれる建造物が一棟ある。幕末から明治にかけ、ここの家人は神戸で西洋家具の修理業を始め、神戸の西洋家具の歴史はここから始まったそうだ。建造物が保存されているが、水道の設備が施されていない。電気設備はあり、イベントに使用している。暮らしの気配はないが土間のたたきなどから昔の生活がしのばれ、通りに面した千本格子の窓は美しい。観光地化されていないため、飲食店やみやげ物店はなく、人の営みがない建物は空ろだ。整然と保存されたこの地区に、人の気配を取り戻し、現在の時間を流れさせたい。保存地区の指定以降、お年寄りたちの手でNPO笠島まち並保存協力会を立ち上げ、江戸時代の建物を運営する民宿事業、ふれあい茶屋といううどん店の運営を始めている。しかし、民宿事業は立ち上げたばかりで、今年がはじめての海水浴シーズンを迎えようとしていた。笠島の人々との協働事業には出来そうになかった。来年の活動に向けて準備しようと考えたが、メンバーの中から自分たちでグループを立ち上げ、活動してみようという意見が出る。島の生活は簡単ではなかった。必要なものはすべて丸亀から持ち込まなければならない。訪れる私たちを理解してもらうための時間はあまり用意されていない。アーティストの発想や考え方が刺激となる場合がある。アーティストが地域の人と具体的に作品を作ったり、地域づくりを考えたりすることもあるだろう。様々な思いが錯綜し、市の保有する伝統的建造物旧真木邸を中心にアーティストが島に滞在して活動を行うというプロジェクト案を作成した。このプランが委嘱事業の候補になっているという連絡が文化庁からあったのは、7月末だった。事業期間は、平成18年度内に実施すること、平成19年3月17日までに完了しなければならなかった。文化庁の担当官が、調査のために本島を訪れたのは8月4日だった。しかし、事業計画が選定された後もすぐに本島での活動を開始することは出来なかった。文化庁にとっても新しい事業の為に、庁内の調整に時間がかかり、SAWのプロジェクトが、委嘱事業となったために、事業開始の通知を受ける9月11日までの一月間、広報告知活動はもとより、具体的な経費を使う活動は何も出来なかったのだ。振り返るとかえってその為に、私たちは展覧会というイベントではない方向へ向かって動き出すことになった。現在のこの島の状態で、多くの人を迎え入れる目的でアート展を行うことは、相応しいことではないと感じる。島の人々の生活を乱さないことを考えた。自分たちのルールや言葉でおしゃべりすることは今ここでは必要がない。それよりも、そこで生きてきた人々と出会い、語ることばに向き合うことだ。塩飽水軍や本島の歴史は、数多く本に書き残され、語られている。このプロジェクトは、訪れたアーティストが島の人々の暮らしや歴史の記憶を反映する鏡のような立場になろう。体験しないと知りようのないここの暮らしや個人レベルの歴史を取材しよう。言葉を受け止めることが出来る人。そこでレジデンス作家として、美術に近いところで活動を行っている小説家としての福永信を考慮した。この場所に訪れてもらう前に、まず活動状況やここの暮らしをWEBを通じて発信する。次にDVD映像や出版物などによって間接的にこの場所と活動を紹介して行こうと考える。

■支援企業募集

今回の事業費では、出版物制作費が不足だ。そこで出版物を制作するための支援を得るため、事業委嘱の通知が届いた9月11日以降、あたふたと支援者を求め駆け回ることになった。丸亀市文化課の担当者の尽力をいただき、県内の企業数十社を訪問した。一行5文字で3行程度、簡単にまとめた紙芝居を作り、事業説明を行なった。笠島地区の自治会長とまち並会長への説明会を行なったときに、紙芝居を使って説明を語り終え、精一杯の好意を示しながら「なにかご質問はありますか?」と尋ねると、即座に「レジデンスとか、ワークショップとかカタカナばかりでさっぱり意味がわからん。」と反応がある。自分たちの言葉で説得しようとしていた。帰りのフェリーの時間だ。日を改め、もう一度説明を行うことを伝え船に乗る。日本語に置き換え、さらに思いを伝える言葉を模索する。丸亀近隣の地元企業は、本島の現状について理解があり、憂慮していた。SAWの活動に対して「がんばりなさい」と理解を示して支援をいただいた。

■ レジデンス開始
福永信は9月28日から9月12日までの15日間島に滞在し、アーティストインスクールやワークショップなどを行って人々と交流した。SAWも入れ替わりつつ、彼をサポートし島の人々や暮らしに触れていった。産業の衰退による人口減少と高齢化、抱える悩みは深刻だ。ここでは、なんとかなるだろうと思っていると、飲食にも事欠くことがある。欲しいものがたやすく手に入るわけではない。がまんすることもしばしば経験する。海は目の前だが、魚が釣れたことはなかった。防波堤で釣りをしている人もしばしば見かけた。夕食の食材を分けて貰おうと、話しかけたこともあった。アオリイカを釣っていた。沖縄沖のアオリイカが海流のせいかこの辺りでも獲れるのだという。自然環境が変化しているせいなのだろうか。日が落ちると静けさの闇だ。音が無い、もしくはかすかな波の音、鳥の声。深夜のようにも思え、時間がわからなくなる。体感する時間のスピードが後退するように遅くなって行く。波の音、潮の香り、頭の上にひろがる空の大きさ、視覚、嗅覚、五感の緊張が一挙に開放される。普段都市の雑踏で様々な音にさらされていると、気づかぬうちに神経は覚醒している。自己実現、好奇心、日常への刺激とこのうえなく欲深く、日常化した緊張によって聴覚、視覚、五感は鈍化していると感じる。数日を過ごすうちに、ここの豊かさが見えてくる。その豊かさとは、自然のもつ生命力を受けることだ。島の小学生・中学生たちが感じる音、島の暮らしの音をテーマにワークショップを行った。笠島地区の人々と話すきっかけに思いつくひらがなを書いてもらった。「おかしなことを言う・・」と戸惑いながらも、ひらがなを書いてもらい、ここでの生活やこの場所を保存しようとする思いを集めた。手土産のお菓子のお礼にと、生きた魚を届けてもらい、にぎやかだった昔の笠島の風景やまつりのお囃子を謡っていただくこともあった。旧真木邸の向かいにある真木(さなぎ)邸は保存センターとして笠島の歴史を公開している。廻船問屋だった建物はふれあい茶屋として、美味しいうどんを食べさせてくれる。その先に日用品を売っている森中商店がある。なにかとこの地区の人々にお世話になった。短期間だったが、レジデンスやワークショップを通じ、言葉を交わし、困惑したり、笑いあったり、いくつかのささやかな交流が生まれた。福永は日記を書くことで、人々との豊かなやり取りを書きとめていった。それを、活動告知と笠島地区を含む本島の情報を発信するために、Webに掲載していった。9月12日以降からはSAWが交代で短期の日程で滞在した。メンバーの中のアーティストは、それぞれの創作に結びついたようだ。11月23日は、笠島の人々のふれあい祭りの日だ。私たちも祭りに溶け込む形で、島の人々に活動の成果を見てもらおうと展覧会を計画した。福永信は書き続けた日記とあつめたひらがなで新たな日記を書き下ろし、旧真木邸の各部屋に作品を設置して、建造物を見てもらうことにした。子供たちが撮った音の写真はどれも素敵なものだった。イベントとして、子供たちに参加してもらい、どんな音が聞こえたのか口や楽器による発表会を行った。祭りの日、千本格子の窓には手作りの竹筒に挿された花で飾られ、うどんや野菜のバザーでにぎやかだ。尾上神社では餅つきや太鼓の演奏、笠島のお年寄り手作りのまつりだった。いつも静かな場所が人でにぎわい建物には人の声と熱気が満ちていた。建物に現在の時間が流れた一日となった。笠島地区には現在90人が暮らしている。人口減少、少子化、食料不足、この島の抱える悩みは、そのまま将来のこの国の悩みに重なっている。この島の人々は、人名という自治制度を持ち、いつの時代も生き抜くために暮らしのかたちを変えてきた塩飽水軍の末裔たちだ。現在も自らの手で作り出そうと独創的で創造的だ。
SAWは、この活動とともに変化していった。まるで海の泡のように、ゆるやかに集まり、様々な想いが錯綜し、重なり、あるいは流れて行った。異なる価値観に触れたまなざしはやわらかい。そのもっと奥にある多様な深い命へたどりつくまなざしだろうか。どうやら私たちは途方もなく大きなものの一部にやっと触れたようである。島の人々は、「おぅ、もう帰るんか?」「こんどはいつ来るの?」と待っていてくれるようになった。この活動は、いま、はじまったばかりである  


Posted by ギャラリーアルテ at 15:08Comments(0)アートプロジェクト