
2009年05月27日
アーティスト・イン笠島~記憶の集積を創造の海へ
書籍では第四部にはいる池田剛介(孔介)氏による美術批評です。
『これはサイトスペシフィックではない』
2006年十一月二十三日、私は丸亀からのフェリーに揺られ、本島という瀬戸内の小さな島を訪れました。島内の笠島地区でのアーティスト・イン・レジデンス成果発表会場へ向かう道すがら、私の頭にはすでに、「場所」とは何か、サイトスペシフィックとは何か、という問題が据えられていました。 作家がある「地域」へ出向き、「アーティスト・イン・レジデンス」しつつ、「ワークショップ」も催す、とこれだけの語が並べられれば誰でも、 少なくとも現代美術に関わっている人間にとっては誰でも、上のような問題を真っ先に思いつくことになります。ただ、そこに何らかの違和感がなかった訳ではなく、とりわけ福永信という名は、私の考える限り、サイトスペシフィックなる言葉——場の固有性と向かい合い、その特殊性を強調する、その語と容易に結びつくような対象ではありませんでした。
「笠島日記」、それを福永の作品として私が接した際、やはり同様の違和を感じざるを得ませんでした。私はこれまで、ある一定の関心を持って福永の小説に触れてきており、そのいくつかは別の場所で論じてもいます 。作家本人からは「事実として起こった事は小説に書かない」という事をよく聞いている、とすれば、ますますこのテクストは小説から遠ざかるように思えるでしょう。 にも関わらず、インターネット上に公開されていった日記は、単なる活動のルポタージュの枠を超え、彼の小説のあり方をも逆照射しているようにすら思えるのです。端的に言って、「笠島日記」は福永信のこれまでのテクストと決定的に違っています。この違いを見据えること、いわば前者と後者との視差を基に「アーティスト・イン・笠島」プロジェクトの意義を捉えること、これこそが本論の中で目指されています。
■ 鏡としての小説
通常の小説は、最良の作品に限られるであろうが、その作品を通じて外界をヴィヴィッドに映します。作家の感性を媒介として見られた世界が、紋切り型のイメージに回収される事なく生き生きと描写される時、読者は文字どおり本を「通じて」その構築された外界と接する事となります。このような特性は、少なくとも現代の表現としては、文学というメディウムに顕著なものだといえるでしょう。他の多くのメディア、例えば美術においては、20世紀を経て徹底した抽象化が進められてきており、外界を写し取る媒体としての特性は失ってゆきました。対して、文学は言葉を表現の手段として用いている限り、美術でいうような意味での抽象化を徹底する事は困難であり、もしもそれを進めるとすれば言葉はやがて解体され、文字の音を作品の主たる構成要素して扱う詩というメディウムの方へと向かう事となるでしょう。 小説」や「詩」などというジャンル的区分に本質的な意味を認めるべくもないですが、さしあたりこのような線引きは、近代以降、文学を考える上での前提だともいえます。未だその物語性を失っていないメディウムとしての文学。読者はいわば小説という「窓」を通じ、その世界観に触れる。できうる限りこの窓を磨き、透明化し、読者と外界との距離を近づけてゆく事こそが、良質な文学の一つの条件として認識されています。
ところが、福永信という小説家は様々な形で、このような小説の特性を切断する事を試みているように思えます。外界へ開かれた窓を傷つけ、あるいは何か別のものに入れ変えることによって、従来の小説の条件そのものを問おうとします。いわゆる「詩」的な実験において行われるような、言葉の文法的逸脱や、その音声的要素の強調が見られる訳でもなく、むしろ「小説」的な顔貌を常に装いながら、読者の知らぬ間に、何か別のものに変化させてしまっているかのようなのです。
彼のデヴュー短編集『アクロバット前夜』に所収された「読み終えて」を見てみましょう。
冒頭「君は、ねらわれている。」という宣言と共に書き始められるこの作品。「 君」は何らかの理由で何者かに狙われており、「僕」はその「君」へ向けて、仕掛けられた罠へ注意を払うよう、延々と長い手紙を書きます。「君」へと届けられたその手紙を読むように、読者は、小説を読み進める事となる、このような形式自体は夏目漱石「こころ」に代表されるように、珍しいものではありません、しかしながら、驚きは小説の終わりにやってきます。
「ここまで読んだ君になら僕の言おうとしていることがわかるだろう。この手紙の長さの意味がわかるだろう。この手紙を読んでいる間、君はその時間の分だけ、その日の、いつもの君の行動から遅れているのだ。その時間はただこれを読んでいた時間だ。そして読んでいた時間だけ、遅れた分だけ、予測され仕掛けられた罠を、ズラし、使いものにできなくするのだ。」(読み終えて)
「君」が手紙を読んでいた時間の消費こそが、この手紙が機能する唯一の効果なのであり、それ以外のものではない。手紙の中で延々と語られていた襲撃者の行為やそれに対する注意の喚起は、単に「読む」という行為を通じて現実的に時間を遅らせるためのものに他ならなかった。この時、小説内における「君」と読者との位置がピタリと一致します。手紙を読んでいた「君」へと与えられた時間の消費は、そっくりそのまま読者がそれまで小説を読んできた、その時間的消費へと重ねられます。透明な窓として物語を開示してきた小説が、突如、鏡へと変貌し、読者の姿、すなわち、いまここで私が読んでいる、その行為自体を強烈に映し出します。
読むことの意味が、端的に「時間稼ぎ」という目的に還元され、読んだ内容に先立つことを知らされたその時、小説の読者もまた、作品を読むために一定の時間を費やされていたという事実に蹴躓かされるでしょう。ここにおいて「読む」という経験は、小説を通じて外界ないし物語ではなく、読者自身がここで本を読んでいた、その現実的な時間の厚みこそを見させることとなるのです。
このような福永作品の「鏡」的傾向を示すために、もう一つの例を挙げておきましょう。短編集『コップとコッペパンとペン』所収の同名作品、その題の内には二つの「と」が含まれています。
早苗が図書館で見知らぬ男に話しかけられ緊張が高まったかと思えば、次の段落で彼らは夫婦となり早苗は妊娠している、と思えばすぐさま早苗は帰らぬ人となっており、早苗の娘は失踪した父を捜し始める。こういった具合に、小説内の諸出来事は十分な因果関係を欠いたまま接続されています。ここでは時間的、空間的な大きな飛躍が、その記述の分量と釣り合わない形で唐突に提示されている点に注視されなければなりません。先に記したような物語展開におけるあまりにも大きな文脈的飛躍は、複数の出来事間のズレ、その断面を読者に露にします。ある主体が何かを始めたかと思えば、その彼/彼女は消え去り、小説内の語りは、主要な主体をまた新たに見つけ出し、しかしその新たな主体もまた直ちに消え去り、小説はまた別の行為主体へと目を向けざるを得ない。ある主体「と」別の主体「と」、またさらに別の主体「と」…いうように、ここで見いだされるものは複数の人物と彼らをめぐる出来事間の断面、接続詞「と」そのものであり、確固たる主体が設定され得ない非人称的な次元というべきものなのです。
そもそもこの小説の題は「コップとコッペパンとペン」というのですが、これらの三つの要素のうちの二つは「いい湯だが電線は窓の外に延び、別の家に入り込み、そこにもまた、紙とペンとコップがある。この際どこも同じと言いたい。」という不可解な書き出しにおいて現れるものの、コッペパンというモチーフは一切、小説内に現れて来ない、むしろそれは純粋にコップ「と」ペン「と」をつなぐ音として挿入されているのだと考えるべきでしょうか。
コップとペンとをコッペパンがつなぐ。様々な主体が次々に移り行くこの小説において、様々に舞台は展開していくが、結局のところ「どこも同じ」。そこにあるのは登場人物でも、その背景となる場所でもない、単なるつなぎ目としての「と」、すなわち諸出来事間の蝶番のみなのです。このような、およそ一般的な意味においての小説の展開としては「不自然」な接続部の露呈は、読者の物語への感覚的没入を絶えず阻害し、読書という行為そのものへの認識へと、常に読者の意識を立ち返すことを強いるでしょう。眼前の小説、窓として本の向こうの世界を開いていた小説が、ここにおいて鏡へと姿を変え、読者の行為そのものを映して止まなくなるのです。
■ 笠島日記、遍在する窓としての
このように、読むことの行為それ自体を映し出す鏡としての小説を発表し続けてきた作家にして、この「笠島日記」は、非常に一般的な文学的特質、つまり外界を映す窓にも似た性質を保持しているように思えます。小説というものがある一定のフィクション性を前提とするならば、差し当たって日記文学や紀行文との類比で「普通」に読む事ができるでしょう。作家がフィルターとなって、我々読者は島で起こった出来事を知る、つまり、文章が透明な窓となり、読者を外界へと導いてゆく、というわけです。
しかし先述したように、この作家は小説の物語構造や物体的特性に対し極めて意識的な人間であり、そのような作家が、笠島日記が発表された媒体のあり方に対して無意識的であるはずもないでしょう。公開されたのはインターネットというメディウムであり、それはあらゆる場所から、この文章へとアクセスする事を可能にするものです。
小説家、福永信は2006年9月28日、十五日間の本島は笠島地区での滞在を開始します。当然の事ながら活動自体に何らかの成果を要請される、そのような与えられた役割に対する不安を隠そうともせず、インターネットを通じて、日記形式で公開してゆきます。
「いつもここで海を見ているんですか、と聞いてみる。滞在中は島の人たちと交流をもって下さいといわれているのである。『交流』といわれても全然絵が浮かばない。というか絵に描いたような交流の図しか浮かばす、右のような質問になったのだ。」(9/29の日記より)
滞在当初、大まかな活動プランのみを用意し島を訪れた福永は、交流のあり方そのものに多いに戸惑い、しかし、その戸惑いを孕んだ出来事そのものに何らかの意味を見いだすかのように、丹念に日記に書き付けてゆきます。ほとんど手ぶら状態でやってきた小説家の、その手持ち無沙汰な感覚、そして、何らかの結果が求められる状況への逡巡。そのような、何もない手ぶらな中から開始された笠島での滞在に何かしらの手応えを求めるかのように、人々との交流のかけらを収集してゆくことを思い立ちます。
「本島に入って三日目になって、ワークショップのプランを大幅に変えた。 (…) 実際にこの場所に来てみて、おじいさんおばあさんたちと言葉を交わすうちに、これはちがうな、集まって限定された時間の中で何か作業をする、そういうことではないなと思えてきた。(…)らくがき帳が置いてあるのがたまたま目にとまった。よし、これを使わせてもらおう。」
読者からすれば、なんとまあ行き当たりばったりな、と思う他ないのですが、ともかくもこのようにして、 らくがき帳の各ページに、ひらがな一文字を書いてもらう活動が開始されます。
画用紙に書かれてゆく数々のひらがな、それは島の中で福永信という人物を通じ、島民との対話、交流を通じて集められたものです。ひらがな一文字はそれ自体として何ら意味をもたず、あくまで断片に留まるほかない。さらに、小中学校では生徒と共に「音を撮る」というテーマのもとワークショップが行われ、インスタントカメラを手にした一人一人が、それぞれの視点で見つけ出した島の中の音のかけらを拾い集めてゆく。これらの経緯を記録し続けた「笠島日記」にもまた、島で起こる出来事のささいな断片が綴られ、少しずつ、日々記される分量も増えてゆきます。
「笠島日記」を通じて立ち現れるのは、福永という作家によって経験された、断片的な場所の記録なのであって、それが笠島という名と強く結びついて現れるという事はありません。そこで描かれる出来事は、まさに福永が「笠島日記を書き終えて」にて記しているように「どこにでもありそうな、そして実際にどこにだってある」ものなのでしょう。であるとすれば、インターネットという空間、どこからでもアクセスし得る空間に公開された日記を通じて私たちがたどり着く場所もまた、どこにでもありえる場所なのだと言えます。あらゆる場所に遍在する窓のむこうに「どこか」を見いだすこと、これこそがインターネット上で公開された「笠島日記」の特徴を為しており、それは一般的な小説の特性としての「窓」的な性質とも、福永の小説に見て取った「鏡」的な性質とも決定的に異なっています。
結ばれ、そして、ほどかれる
「笠島日記」追記の中で、この小説家は、なにやら重たい紙袋と共に本島へ再来するでしょう。作家の手にはワークショップに参加した生徒や先生たちに撮ってもらった数多くの写真、 十五日間の日記を凝縮した文章を一文字一ページにプリントアウトし、その所々に書いてもらったひらがなが散りばめられた全九巻もの手作り本。 無意味なまでに「重い」全九巻もの書物となった「笠島日記」は、原稿用紙五枚足らずの文章として編集されています。これらの公開と共に、普段ではあり得ないほど、島の内外から子供も大人もが集う、その祭りの日がやってくる。
このように2006年10月23日、二週間の滞在時に集められてきた写真、文字、そして日記までもが一点において交わり、凝集された。古い民家において古い人も新しい人もが集い、出会い、言葉を交わす、この出来事をさしあたりサイトスペシフィックだと考える事は可能でしょう。そうしたこの場所を特別なものとして見なすこともできるかもしれません。しかし、むしろ重要なのはその後、ここで集められたちいさな断片たちが、再び元の場所へと戻ってゆく、このことにあるのではないでしょうか。集められた写真は、撮影者それぞれが持ち帰り、出会いを通じて書かれた一つ一つのひらがなも、凝縮された日記と同様に、この場に集った読者の記憶のかけらなってバラバラに散逸してゆく。つかの間のにぎわいを見せたこの場所、真木邸にその後、何が残るという訳でもないのです。
結ばれた一点が、ここで再びほどかれる。いや、むしろそれは、ほどかれるためにこそ結ばれたのだと言うべきでしょう。そこにあったのは小さな、しかし、確かな波です。出来事のささやかな記憶のみを運び、何も残さず消え去ってしまうような波。そうしてこの場は、再び、「どこにでもありそうな、そして実際にどこにだってあるだろう」場所へと戻ってゆく。「笠島日記」はこのような、場所の遍在性へ向けて書かれていたのであり、その窓の向こうに見える、どこででもありうる場所へと読者を開いてゆくのです。これはサイトスペシフィックではない。あらゆる場所からあらゆる場所へ通じる窓、このような透明な窓こそが「アーティスト・イン・笠島」というプロジェクトがもたらした、目に見えない作品なのであり、 どこでもないが、しかしどこかに残された、唯一のものであるのかもしれません。
池田剛介
『これはサイトスペシフィックではない』
2006年十一月二十三日、私は丸亀からのフェリーに揺られ、本島という瀬戸内の小さな島を訪れました。島内の笠島地区でのアーティスト・イン・レジデンス成果発表会場へ向かう道すがら、私の頭にはすでに、「場所」とは何か、サイトスペシフィックとは何か、という問題が据えられていました。 作家がある「地域」へ出向き、「アーティスト・イン・レジデンス」しつつ、「ワークショップ」も催す、とこれだけの語が並べられれば誰でも、 少なくとも現代美術に関わっている人間にとっては誰でも、上のような問題を真っ先に思いつくことになります。ただ、そこに何らかの違和感がなかった訳ではなく、とりわけ福永信という名は、私の考える限り、サイトスペシフィックなる言葉——場の固有性と向かい合い、その特殊性を強調する、その語と容易に結びつくような対象ではありませんでした。
「笠島日記」、それを福永の作品として私が接した際、やはり同様の違和を感じざるを得ませんでした。私はこれまで、ある一定の関心を持って福永の小説に触れてきており、そのいくつかは別の場所で論じてもいます 。作家本人からは「事実として起こった事は小説に書かない」という事をよく聞いている、とすれば、ますますこのテクストは小説から遠ざかるように思えるでしょう。 にも関わらず、インターネット上に公開されていった日記は、単なる活動のルポタージュの枠を超え、彼の小説のあり方をも逆照射しているようにすら思えるのです。端的に言って、「笠島日記」は福永信のこれまでのテクストと決定的に違っています。この違いを見据えること、いわば前者と後者との視差を基に「アーティスト・イン・笠島」プロジェクトの意義を捉えること、これこそが本論の中で目指されています。
■ 鏡としての小説
通常の小説は、最良の作品に限られるであろうが、その作品を通じて外界をヴィヴィッドに映します。作家の感性を媒介として見られた世界が、紋切り型のイメージに回収される事なく生き生きと描写される時、読者は文字どおり本を「通じて」その構築された外界と接する事となります。このような特性は、少なくとも現代の表現としては、文学というメディウムに顕著なものだといえるでしょう。他の多くのメディア、例えば美術においては、20世紀を経て徹底した抽象化が進められてきており、外界を写し取る媒体としての特性は失ってゆきました。対して、文学は言葉を表現の手段として用いている限り、美術でいうような意味での抽象化を徹底する事は困難であり、もしもそれを進めるとすれば言葉はやがて解体され、文字の音を作品の主たる構成要素して扱う詩というメディウムの方へと向かう事となるでしょう。 小説」や「詩」などというジャンル的区分に本質的な意味を認めるべくもないですが、さしあたりこのような線引きは、近代以降、文学を考える上での前提だともいえます。未だその物語性を失っていないメディウムとしての文学。読者はいわば小説という「窓」を通じ、その世界観に触れる。できうる限りこの窓を磨き、透明化し、読者と外界との距離を近づけてゆく事こそが、良質な文学の一つの条件として認識されています。
ところが、福永信という小説家は様々な形で、このような小説の特性を切断する事を試みているように思えます。外界へ開かれた窓を傷つけ、あるいは何か別のものに入れ変えることによって、従来の小説の条件そのものを問おうとします。いわゆる「詩」的な実験において行われるような、言葉の文法的逸脱や、その音声的要素の強調が見られる訳でもなく、むしろ「小説」的な顔貌を常に装いながら、読者の知らぬ間に、何か別のものに変化させてしまっているかのようなのです。
彼のデヴュー短編集『アクロバット前夜』に所収された「読み終えて」を見てみましょう。
冒頭「君は、ねらわれている。」という宣言と共に書き始められるこの作品。「 君」は何らかの理由で何者かに狙われており、「僕」はその「君」へ向けて、仕掛けられた罠へ注意を払うよう、延々と長い手紙を書きます。「君」へと届けられたその手紙を読むように、読者は、小説を読み進める事となる、このような形式自体は夏目漱石「こころ」に代表されるように、珍しいものではありません、しかしながら、驚きは小説の終わりにやってきます。
「ここまで読んだ君になら僕の言おうとしていることがわかるだろう。この手紙の長さの意味がわかるだろう。この手紙を読んでいる間、君はその時間の分だけ、その日の、いつもの君の行動から遅れているのだ。その時間はただこれを読んでいた時間だ。そして読んでいた時間だけ、遅れた分だけ、予測され仕掛けられた罠を、ズラし、使いものにできなくするのだ。」(読み終えて)
「君」が手紙を読んでいた時間の消費こそが、この手紙が機能する唯一の効果なのであり、それ以外のものではない。手紙の中で延々と語られていた襲撃者の行為やそれに対する注意の喚起は、単に「読む」という行為を通じて現実的に時間を遅らせるためのものに他ならなかった。この時、小説内における「君」と読者との位置がピタリと一致します。手紙を読んでいた「君」へと与えられた時間の消費は、そっくりそのまま読者がそれまで小説を読んできた、その時間的消費へと重ねられます。透明な窓として物語を開示してきた小説が、突如、鏡へと変貌し、読者の姿、すなわち、いまここで私が読んでいる、その行為自体を強烈に映し出します。
読むことの意味が、端的に「時間稼ぎ」という目的に還元され、読んだ内容に先立つことを知らされたその時、小説の読者もまた、作品を読むために一定の時間を費やされていたという事実に蹴躓かされるでしょう。ここにおいて「読む」という経験は、小説を通じて外界ないし物語ではなく、読者自身がここで本を読んでいた、その現実的な時間の厚みこそを見させることとなるのです。
このような福永作品の「鏡」的傾向を示すために、もう一つの例を挙げておきましょう。短編集『コップとコッペパンとペン』所収の同名作品、その題の内には二つの「と」が含まれています。
早苗が図書館で見知らぬ男に話しかけられ緊張が高まったかと思えば、次の段落で彼らは夫婦となり早苗は妊娠している、と思えばすぐさま早苗は帰らぬ人となっており、早苗の娘は失踪した父を捜し始める。こういった具合に、小説内の諸出来事は十分な因果関係を欠いたまま接続されています。ここでは時間的、空間的な大きな飛躍が、その記述の分量と釣り合わない形で唐突に提示されている点に注視されなければなりません。先に記したような物語展開におけるあまりにも大きな文脈的飛躍は、複数の出来事間のズレ、その断面を読者に露にします。ある主体が何かを始めたかと思えば、その彼/彼女は消え去り、小説内の語りは、主要な主体をまた新たに見つけ出し、しかしその新たな主体もまた直ちに消え去り、小説はまた別の行為主体へと目を向けざるを得ない。ある主体「と」別の主体「と」、またさらに別の主体「と」…いうように、ここで見いだされるものは複数の人物と彼らをめぐる出来事間の断面、接続詞「と」そのものであり、確固たる主体が設定され得ない非人称的な次元というべきものなのです。
そもそもこの小説の題は「コップとコッペパンとペン」というのですが、これらの三つの要素のうちの二つは「いい湯だが電線は窓の外に延び、別の家に入り込み、そこにもまた、紙とペンとコップがある。この際どこも同じと言いたい。」という不可解な書き出しにおいて現れるものの、コッペパンというモチーフは一切、小説内に現れて来ない、むしろそれは純粋にコップ「と」ペン「と」をつなぐ音として挿入されているのだと考えるべきでしょうか。
コップとペンとをコッペパンがつなぐ。様々な主体が次々に移り行くこの小説において、様々に舞台は展開していくが、結局のところ「どこも同じ」。そこにあるのは登場人物でも、その背景となる場所でもない、単なるつなぎ目としての「と」、すなわち諸出来事間の蝶番のみなのです。このような、およそ一般的な意味においての小説の展開としては「不自然」な接続部の露呈は、読者の物語への感覚的没入を絶えず阻害し、読書という行為そのものへの認識へと、常に読者の意識を立ち返すことを強いるでしょう。眼前の小説、窓として本の向こうの世界を開いていた小説が、ここにおいて鏡へと姿を変え、読者の行為そのものを映して止まなくなるのです。
■ 笠島日記、遍在する窓としての
このように、読むことの行為それ自体を映し出す鏡としての小説を発表し続けてきた作家にして、この「笠島日記」は、非常に一般的な文学的特質、つまり外界を映す窓にも似た性質を保持しているように思えます。小説というものがある一定のフィクション性を前提とするならば、差し当たって日記文学や紀行文との類比で「普通」に読む事ができるでしょう。作家がフィルターとなって、我々読者は島で起こった出来事を知る、つまり、文章が透明な窓となり、読者を外界へと導いてゆく、というわけです。
しかし先述したように、この作家は小説の物語構造や物体的特性に対し極めて意識的な人間であり、そのような作家が、笠島日記が発表された媒体のあり方に対して無意識的であるはずもないでしょう。公開されたのはインターネットというメディウムであり、それはあらゆる場所から、この文章へとアクセスする事を可能にするものです。
小説家、福永信は2006年9月28日、十五日間の本島は笠島地区での滞在を開始します。当然の事ながら活動自体に何らかの成果を要請される、そのような与えられた役割に対する不安を隠そうともせず、インターネットを通じて、日記形式で公開してゆきます。
「いつもここで海を見ているんですか、と聞いてみる。滞在中は島の人たちと交流をもって下さいといわれているのである。『交流』といわれても全然絵が浮かばない。というか絵に描いたような交流の図しか浮かばす、右のような質問になったのだ。」(9/29の日記より)
滞在当初、大まかな活動プランのみを用意し島を訪れた福永は、交流のあり方そのものに多いに戸惑い、しかし、その戸惑いを孕んだ出来事そのものに何らかの意味を見いだすかのように、丹念に日記に書き付けてゆきます。ほとんど手ぶら状態でやってきた小説家の、その手持ち無沙汰な感覚、そして、何らかの結果が求められる状況への逡巡。そのような、何もない手ぶらな中から開始された笠島での滞在に何かしらの手応えを求めるかのように、人々との交流のかけらを収集してゆくことを思い立ちます。
「本島に入って三日目になって、ワークショップのプランを大幅に変えた。 (…) 実際にこの場所に来てみて、おじいさんおばあさんたちと言葉を交わすうちに、これはちがうな、集まって限定された時間の中で何か作業をする、そういうことではないなと思えてきた。(…)らくがき帳が置いてあるのがたまたま目にとまった。よし、これを使わせてもらおう。」
読者からすれば、なんとまあ行き当たりばったりな、と思う他ないのですが、ともかくもこのようにして、 らくがき帳の各ページに、ひらがな一文字を書いてもらう活動が開始されます。
画用紙に書かれてゆく数々のひらがな、それは島の中で福永信という人物を通じ、島民との対話、交流を通じて集められたものです。ひらがな一文字はそれ自体として何ら意味をもたず、あくまで断片に留まるほかない。さらに、小中学校では生徒と共に「音を撮る」というテーマのもとワークショップが行われ、インスタントカメラを手にした一人一人が、それぞれの視点で見つけ出した島の中の音のかけらを拾い集めてゆく。これらの経緯を記録し続けた「笠島日記」にもまた、島で起こる出来事のささいな断片が綴られ、少しずつ、日々記される分量も増えてゆきます。
「笠島日記」を通じて立ち現れるのは、福永という作家によって経験された、断片的な場所の記録なのであって、それが笠島という名と強く結びついて現れるという事はありません。そこで描かれる出来事は、まさに福永が「笠島日記を書き終えて」にて記しているように「どこにでもありそうな、そして実際にどこにだってある」ものなのでしょう。であるとすれば、インターネットという空間、どこからでもアクセスし得る空間に公開された日記を通じて私たちがたどり着く場所もまた、どこにでもありえる場所なのだと言えます。あらゆる場所に遍在する窓のむこうに「どこか」を見いだすこと、これこそがインターネット上で公開された「笠島日記」の特徴を為しており、それは一般的な小説の特性としての「窓」的な性質とも、福永の小説に見て取った「鏡」的な性質とも決定的に異なっています。
結ばれ、そして、ほどかれる
「笠島日記」追記の中で、この小説家は、なにやら重たい紙袋と共に本島へ再来するでしょう。作家の手にはワークショップに参加した生徒や先生たちに撮ってもらった数多くの写真、 十五日間の日記を凝縮した文章を一文字一ページにプリントアウトし、その所々に書いてもらったひらがなが散りばめられた全九巻もの手作り本。 無意味なまでに「重い」全九巻もの書物となった「笠島日記」は、原稿用紙五枚足らずの文章として編集されています。これらの公開と共に、普段ではあり得ないほど、島の内外から子供も大人もが集う、その祭りの日がやってくる。
このように2006年10月23日、二週間の滞在時に集められてきた写真、文字、そして日記までもが一点において交わり、凝集された。古い民家において古い人も新しい人もが集い、出会い、言葉を交わす、この出来事をさしあたりサイトスペシフィックだと考える事は可能でしょう。そうしたこの場所を特別なものとして見なすこともできるかもしれません。しかし、むしろ重要なのはその後、ここで集められたちいさな断片たちが、再び元の場所へと戻ってゆく、このことにあるのではないでしょうか。集められた写真は、撮影者それぞれが持ち帰り、出会いを通じて書かれた一つ一つのひらがなも、凝縮された日記と同様に、この場に集った読者の記憶のかけらなってバラバラに散逸してゆく。つかの間のにぎわいを見せたこの場所、真木邸にその後、何が残るという訳でもないのです。
結ばれた一点が、ここで再びほどかれる。いや、むしろそれは、ほどかれるためにこそ結ばれたのだと言うべきでしょう。そこにあったのは小さな、しかし、確かな波です。出来事のささやかな記憶のみを運び、何も残さず消え去ってしまうような波。そうしてこの場は、再び、「どこにでもありそうな、そして実際にどこにだってあるだろう」場所へと戻ってゆく。「笠島日記」はこのような、場所の遍在性へ向けて書かれていたのであり、その窓の向こうに見える、どこででもありうる場所へと読者を開いてゆくのです。これはサイトスペシフィックではない。あらゆる場所からあらゆる場所へ通じる窓、このような透明な窓こそが「アーティスト・イン・笠島」というプロジェクトがもたらした、目に見えない作品なのであり、 どこでもないが、しかしどこかに残された、唯一のものであるのかもしれません。
池田剛介
2009年05月27日
地域とアート4 本島での活動 福永信
アーティストイン笠島~『記憶の集積を創造の海へ』の初稿です。

2006年10月x日 海が見える大倉邸にて
『高島昭夫さんをかこんで』
聞き手 SAW
福永信
本島町笠島地区の小高い丘陵部に中世の城跡がある。笠島地区は、城下町としての雰囲気が残る集落であり、天然の港を活かした瀬戸内の港町として、国の伝統的建造物群保存地区に選定された。保存地区の中心部マッチョ通り(町通りの転訛でこう呼ばれる)の門に真木(さなぎ)邸がある。現在は、笠島まち並保存センターとして公開している。
高島さんは、保存センターの館長として、また笠島地区の自治会長としてSAWの相談役、調整役として、なにかとお世話いただいている方である。現役の笠島大工さんでもあるそうだ。そこで日中はご多忙でお話を伺う機会がないため、夕食を共にしながら、笠島の歴史、高島さんの個人的な記憶について、お話を伺おうと私たちの宿舎となっている大倉邸にお招きした。

自分でもかわりもんじゃと思っとるのよ。仕事の場合は、本職の大工の場合ですよ、これは自分の意地をとおす。でも、いまの仕事、これはとおせません。まち並保存センターの仕事とか、(笠島の)自治会長とか。自分の意見をおさえても、ひとの意見をとりいれないと、と思ってます。若いひとたちから見て、ここ、笠島はどうですか。
一寸ととおっただけでも、雰囲気がわかると思うが、笠島はどういう感じがするか。観光客のひとにも聞くんです。なるべく、みなさん、来てくれたひとにね、へんな感じをさせないような方法をとらないといかんなあ、と。笠島に関しては、きれいでしずかでいいですなあということをいうてくれるひとも多いですが……。家に入っても、あるじゃない。その家に入っただけでも、雰囲気がある。どうもよくないとか、いちばんはじめに一歩ふみこんだときね。
家を建てるとか、修理に入る場合、その家の雰囲気はぜんぶわかるんです。そうしないと修理できません。炊事場も風呂も見るわけですから。そのひとの趣味にあわせないといけないし、ここは夫婦仲がわるいなとか(笑)。その家庭の、ひとのふんどしにあうように修理しなきゃならん。
まち並保存センターでも、お客さん少ないじゃないの。それで、お客さんのほうが気いつこうとることがあるよ。けど、それじゃいけません。自分も(センターの仕事を)やめようと思うけれども、代わりがないわけ。説明が下手でもいいんだけれども、ちゃんとできるひとがなかなかいない。いや、わしもながいことはないんよ。いま、三年め。二年くらい前は、本職しとりました。
本職の大工とはまったくちがう仕事ですが、ただ幸いかな、これまでの仕事のなかで案外、高等教育を受けているひとと話すことが多かったから、(お客さん相手に話すことの多い保存センターの仕事は)べつだん物怖じもせず、こなすことができているかな。
そやなあ。おとぎばなしを話して聞かせるような感じ、バスガイドが説明するような、「右に見えるのはなになにです」というのじゃなくて、おたがいに対話するような感じを心がけておるよ。それで、おおまかなセンだけをいえばいいんじゃないかなと思って、それをモットーにしているわけじゃな。こまこういうと、質問されて返事にもこまるし(笑)。とってつけたことばじゃなくて、そのままのことばでいいんだから。近所のひとと話すようにすればいいんだ。
そうはいっても、「お前うまげにいいよるとくらっしゃげるぞ」とかいうと、逃げてしまう(笑)。これは、まあ、「うまいことばっかりいうとなぐるぞ」ということだけど(笑)。ほかにも、「おえん」は、だめだ、ということですが、「へらこい」(けちんぼう)とか。「こすい」(づるかしこい)とか。でも本島の言葉はいろいろまじっとる。岡山言葉も、関東も、上方も、いろいろなひととつきあってきとるから。わたしらのことばはいろいろミックスしとる。とくに笠島と泊は、むかしながらのことば、すくないな。阪神方面への出入りがあるから。
ここの歴史はそういうものであって、端から端まで見通しがきかないとか、枝道が多いとか、きちんとした交差点になっていないというのは、塩飽水軍のなごり。「マッチョ通り」は、「町通り」。これも方言といえるかな。あんたらが聞き取りにまわるんでも、笠島でも西の方は、漁師の言葉が出てくるよ。
まあ、話があっちゃこっちゃするが、そういうふうにおとぎばなしのようにお客さんと話していると質問のほうも、多なってくる。いま話しているようにね。ある程度、だから知っとかなきゃいかん。お客さんが来んで、ねころんで本読んでいるのも、いろいろ知ろうとしているわけ。千五百何年というより、四百年前ですといったほうがわかりよい。「塩飽水軍」というとき、水軍という言葉についての説明もいる。ふつう水軍いうたら海賊となるんですが、ここの水軍は海賊ではないんです。ここの水軍は商船、貨客船というかな、いまでいや、フェリーでしょう。そういう水軍やな。そやけども、八百年前、それくらいになったら愛媛、尾道のあいだの村上水軍と海賊行為もしていた。交通料金をはらわんだら強奪するとかそういうこともあった。けれども基本は商船、輸送船、そういう水軍。真木信夫さんの『塩飽海賊史』という本には、ここのひとたちは海賊のように船をあやつっていたという意味だと聞いている。
水軍というのは軍のように隊をなしていることで、塩飽としての水軍。本島をふくめて塩飽諸島の七つの島、塩飽七島で水軍だった。八百年前にはそうした海賊行為や、法然上人が島流しにあって、ここのお城の住人が見つけて今は専称寺になっている庵に接待したといういわれがある。四百年前は戦国時代、秀吉、家康の時代です。海賊禁止令なんか出るけど、塩飽水軍の船頭たちは、大きい船だろうが、小さいのだろうが、うまくあやつることから、信用を得て国のおかかえになる。仕事もふえていそがしくなっていった。専属の回船業になったわけ。手当てというか、千二百五十石の土地をもらい、自治領になったわけです。人名制という独自の制度もできた。帆で走るんですから、全国に行って、帰ってくるには、ひと月もふた月も十分にかかる。船の修理もいる、そこで船大工も増えていったわけです。みんなふところかがよくなって、お寺にしても、この狭い島に二十四できたわけです。それが、十、いまは。住職さんがいるのは、もっとすくない。
流行ると、いまでもそうだが、真似をするところがでてくる。で、この回船業はもうかるなあ、ということがあって、するとあとからでてくるほうが優勢になってしまう。前からの水軍はすたれてくる。本土のほうがいいということにもなってくる。それで権利を大阪の回船業者にゆずってしまえということになったのが、二百八十年ほど前。船頭は船といっしょに行ってしまうからいいけど、船大工は失業してしまった。
船大工は、そこから家を建てる大工に変更します。技術的にむずかしいのだけど、その時代、家を建てるときに手伝いに行ってたりして交流があってうまく転換ができた。
家の大工になると、島のなかで仕事がいつもあるわけじゃないから、出稼ぎにいくようにもなった。塩飽水軍だったのが、塩飽大工として、こんどは出て行くことになったんですね。そいで、そのようにしていって、善通寺の五重塔、丸亀の山北神社、岡山の、これは国宝になってますが、吉備津神社、国分寺の五重塔といった宮大工としても、塩飽大工が名をはせたということじゃな。一所懸命はたらいたものですから、それでまたふところがよくなったし、出先で土地を買い、家を建て、生活できるようにする、女房、子供を呼ぶ、島の家はだんだん閉まっていく。そして現在にわたって空き家が多い。阪神方面に出ているひと、多いです。簡単にいえば、そういうことなんです。
わしも島から出て、神戸に住んどったのよ。これは家族で住んでた。この島で生れて、神戸に行って、もどってきたわけ。親父は船員だった。
食事も何も配給制になって、ひさしぶりに外食に出て、何か食べようと親父がいったことがありました。神戸に住んどったから、阪急会館の食堂でランチをたのんだわけ、コースで。たのんだはいいけど、「あら、お父さんこれどうしたん。となりのひとはお米のごはん食べてる。ぼくたちのはうどんのごはんだよ」、子供だからそういったの。干しうどんを細かく切ってむしたのがでてきた。親父は、「うっかりしてた、AランチとBランチがあった、これはBランチだ」(笑)。ごはんの代わりにうどんがでるような時代なんです。そのような調子でおったわけですが、疎開せにゃならんという。第一番の空襲がきたわけだ。みんな疎開しないといけない。で、(国民学校の)五年生のときに疎開でもどってきたわけ。
それがもう七十五歳になっとるんだから。いろいろな思い出があるけれども、いいか、わるいか。いまから考えればまあまあよかったんかな。黒いのこれ、開けたら?(福永注・高島さんは未開封のオールドパーを持参して来られ、それがテーブルの上、みんなの目の前にあるのです)
飲むためにもってきたんやから。ぶどう酒は香りなんかが抜けるけど、これは残っても大丈夫だから。こういうのは、舌のうえにちょっとのっけて、口のなかでもてあそぶ感じでな、ビールみたいにグーッとじゃなくて、舌でころがすような感じで。
まあ、そんな具合で、移り住んだ塩飽大工たちは、移住先に家も建てているから、なかなか帰ってこれない。でも、先祖はこっちに墓があるから盆やなんやかやでもどってきます。空き家でも、雨漏りがあると応急手当てをしていく、そうしてきれいに残っている。
で、昭和六十年の国の伝統的建造物の指定もあって年に二、三軒づつ修理して、徹底的になおした。そしていまのような保存地区ができあがったわけです。まあ、もっといえばあとの維持が大変だ、あるいは空き家対策とかいろいろありますが。
こないだもいったけれども、大工になったのは、本心は高校に行きたいんだけど、行けないな、と。自分のところが裕福でないといけなかった。下宿しなきゃとかあるから。遊んどってはいけないし、それでモノを作るのが好きだから、大工になるか、と。女房の親の世話で、大工になるため岡山に出たわけ、十八のころ。笠島の港から小さい船で出るんだわ。昔は下津井鉄道というのがあったの。軽便鉄道ともいいよったけどね。茶屋町まで行って、茶屋町から、宇野線に乗り換えて岡山駅まで行くと、警察が荷物を全部検査しとる。人前で開けさせられた。そういう時代だったから。
住み込みで、朝起きたんはいいけれども、何もすることがないから新聞を読んでたんですな。そしたら親方から「大工仕事を習いに入った早々、新聞読むとはなにごとだ」と怒られた(笑)。「庭の掃除から風呂から、全部やれ」と。仕事を教えてもらうんだから、しゃあないな、いわれる前に、よし、やるわ、というような調子でやりました。あとになって「お前ほど気がきくやつはおらなんだ」といわれるようになった。
食べることでも、そうで、大工には、家を建てているその家のひとが、昼と晩は食べさせてくれるのよ。新入りだから、いちばん最後、古参のごはんのあと、ようやく自分が食べだしたら、はあ、古参の先輩はもう「おかわり」ゆうとる。親方にしてもよ、こっちが食べかけたら、「おい、そろそろやるぞ」と食べるひまがない(笑)。だから自分が上(親方)になったら食べるときはゆっくり食べよ、と、それだけはいった。年明けして礼奉公一年して、二十二歳のときから、いろいろ岡山で仕事しました。生まれ持った習性というかな、仕事がひとよりずぬけとったんだな、じぶんでいうたら悪いけどもよ。どこいっても、案外スムースに、いい場所いい場所、下っ端の仕事はせずに、家でいえば床の間とかそういう重要なところをまかされた、というわけじゃな。
笠島に帰ってきたのは、たまたま仕事で、「あんたくらいしか、たのむひとおらんけん」といわれてもどってきて、そしたら同じくらいに、まち並み保存地区の修理の仕事が、ちょうど、ずっと仕事が出たわけね。岡山にもどらず、こっちで保存地区の仕事をしてくれ、ということで、いくつか修理を手がけました。まあ、昭和五十八、九年から、もう二十年以上、こっちにおる。どっちむいてもこっちむいても、ふるさと、知っているひとばかり。
自分が昔からの仕事を知っているから思うんだが、このごろのひとの場合はむちゃくちゃなんだ。ビスでとめるとかなんとかして、ほぞ(みぞ)のいれこみとかぜんぜんないわけ。木は乾いてくると、「やせる」というのですが、ちぢんできます。一年経つとぐずぐずになる。いまの住宅は、建ったときはいい。けれど、ぐすぐすになってしまう。ボルト、ナットでしめたとしても、木はやせるもんであって、それは鉄骨であっても、年月がたつとゆるんでくるから。
島の保存地区の家が残っているのは、ゆるみがないということ。一軒の住宅に一年も二年もかける。なんで保存センターが百六十年もつかというとそういうわけなんです。いまは、耐久率は二十年から二十五年になっとるから、ローンがすんだら家もすんだということになってる(笑)。手間をかけたほうがながもちする。つきあいも、だからながくなります。ここの町並みの修理にしても、予算超過しても、自腹きってもやるということになる。図面にでてないことまでやっているということは素人にはわからんだろうけどな。


保存地区は焼き板ということになっていて、焼き板うってますわな。いっけんぼろぼろしそうで、しません。防水、防虫、そういう効果もある。ただ、コストがあがるし、使わないことがある。昔のイメージ、くずれてしまいますよ、と設計士にいったら、あたまかかえておったけどね。いま、焼き板、高いんでね。手で焼くのと、工務店から持ってくる焼き板は、ちがいます、焼いた肌が。工務店のは、鉄板を焼いておしつけるわけ。つまり表面だけです。自分らが焼くのは、板をよく乾燥させて、煙突みたいに三角に組んで立てて、縄でくくる。そして下から火をつけて焼くんですが、そのままだと燃えてしまうから、焼き具合を見ながら適度にまわしていく。そして自分が、このとき、と思ったところで縄をほどいて、水をかける。岡山にいたころは、用水があちこちにあるからそこに放り込む。
姉によくいわれた。「お前こんなていねいにしてたらほかのひとに仕事とられてしまうで」、と。でも、年数が経つほど価値がわかるんやから。「はようできたらええわい」というひとはそういうひとを選べばいい。いまはいないでしょ、焼き板を焼くひと。ぼくは焼くけどさ(笑)。
(構成・福永信)

2006年10月x日 海が見える大倉邸にて
『高島昭夫さんをかこんで』
聞き手 SAW
福永信
本島町笠島地区の小高い丘陵部に中世の城跡がある。笠島地区は、城下町としての雰囲気が残る集落であり、天然の港を活かした瀬戸内の港町として、国の伝統的建造物群保存地区に選定された。保存地区の中心部マッチョ通り(町通りの転訛でこう呼ばれる)の門に真木(さなぎ)邸がある。現在は、笠島まち並保存センターとして公開している。
高島さんは、保存センターの館長として、また笠島地区の自治会長としてSAWの相談役、調整役として、なにかとお世話いただいている方である。現役の笠島大工さんでもあるそうだ。そこで日中はご多忙でお話を伺う機会がないため、夕食を共にしながら、笠島の歴史、高島さんの個人的な記憶について、お話を伺おうと私たちの宿舎となっている大倉邸にお招きした。

自分でもかわりもんじゃと思っとるのよ。仕事の場合は、本職の大工の場合ですよ、これは自分の意地をとおす。でも、いまの仕事、これはとおせません。まち並保存センターの仕事とか、(笠島の)自治会長とか。自分の意見をおさえても、ひとの意見をとりいれないと、と思ってます。若いひとたちから見て、ここ、笠島はどうですか。
一寸ととおっただけでも、雰囲気がわかると思うが、笠島はどういう感じがするか。観光客のひとにも聞くんです。なるべく、みなさん、来てくれたひとにね、へんな感じをさせないような方法をとらないといかんなあ、と。笠島に関しては、きれいでしずかでいいですなあということをいうてくれるひとも多いですが……。家に入っても、あるじゃない。その家に入っただけでも、雰囲気がある。どうもよくないとか、いちばんはじめに一歩ふみこんだときね。
家を建てるとか、修理に入る場合、その家の雰囲気はぜんぶわかるんです。そうしないと修理できません。炊事場も風呂も見るわけですから。そのひとの趣味にあわせないといけないし、ここは夫婦仲がわるいなとか(笑)。その家庭の、ひとのふんどしにあうように修理しなきゃならん。
まち並保存センターでも、お客さん少ないじゃないの。それで、お客さんのほうが気いつこうとることがあるよ。けど、それじゃいけません。自分も(センターの仕事を)やめようと思うけれども、代わりがないわけ。説明が下手でもいいんだけれども、ちゃんとできるひとがなかなかいない。いや、わしもながいことはないんよ。いま、三年め。二年くらい前は、本職しとりました。
本職の大工とはまったくちがう仕事ですが、ただ幸いかな、これまでの仕事のなかで案外、高等教育を受けているひとと話すことが多かったから、(お客さん相手に話すことの多い保存センターの仕事は)べつだん物怖じもせず、こなすことができているかな。
そやなあ。おとぎばなしを話して聞かせるような感じ、バスガイドが説明するような、「右に見えるのはなになにです」というのじゃなくて、おたがいに対話するような感じを心がけておるよ。それで、おおまかなセンだけをいえばいいんじゃないかなと思って、それをモットーにしているわけじゃな。こまこういうと、質問されて返事にもこまるし(笑)。とってつけたことばじゃなくて、そのままのことばでいいんだから。近所のひとと話すようにすればいいんだ。
そうはいっても、「お前うまげにいいよるとくらっしゃげるぞ」とかいうと、逃げてしまう(笑)。これは、まあ、「うまいことばっかりいうとなぐるぞ」ということだけど(笑)。ほかにも、「おえん」は、だめだ、ということですが、「へらこい」(けちんぼう)とか。「こすい」(づるかしこい)とか。でも本島の言葉はいろいろまじっとる。岡山言葉も、関東も、上方も、いろいろなひととつきあってきとるから。わたしらのことばはいろいろミックスしとる。とくに笠島と泊は、むかしながらのことば、すくないな。阪神方面への出入りがあるから。
ここの歴史はそういうものであって、端から端まで見通しがきかないとか、枝道が多いとか、きちんとした交差点になっていないというのは、塩飽水軍のなごり。「マッチョ通り」は、「町通り」。これも方言といえるかな。あんたらが聞き取りにまわるんでも、笠島でも西の方は、漁師の言葉が出てくるよ。
まあ、話があっちゃこっちゃするが、そういうふうにおとぎばなしのようにお客さんと話していると質問のほうも、多なってくる。いま話しているようにね。ある程度、だから知っとかなきゃいかん。お客さんが来んで、ねころんで本読んでいるのも、いろいろ知ろうとしているわけ。千五百何年というより、四百年前ですといったほうがわかりよい。「塩飽水軍」というとき、水軍という言葉についての説明もいる。ふつう水軍いうたら海賊となるんですが、ここの水軍は海賊ではないんです。ここの水軍は商船、貨客船というかな、いまでいや、フェリーでしょう。そういう水軍やな。そやけども、八百年前、それくらいになったら愛媛、尾道のあいだの村上水軍と海賊行為もしていた。交通料金をはらわんだら強奪するとかそういうこともあった。けれども基本は商船、輸送船、そういう水軍。真木信夫さんの『塩飽海賊史』という本には、ここのひとたちは海賊のように船をあやつっていたという意味だと聞いている。
水軍というのは軍のように隊をなしていることで、塩飽としての水軍。本島をふくめて塩飽諸島の七つの島、塩飽七島で水軍だった。八百年前にはそうした海賊行為や、法然上人が島流しにあって、ここのお城の住人が見つけて今は専称寺になっている庵に接待したといういわれがある。四百年前は戦国時代、秀吉、家康の時代です。海賊禁止令なんか出るけど、塩飽水軍の船頭たちは、大きい船だろうが、小さいのだろうが、うまくあやつることから、信用を得て国のおかかえになる。仕事もふえていそがしくなっていった。専属の回船業になったわけ。手当てというか、千二百五十石の土地をもらい、自治領になったわけです。人名制という独自の制度もできた。帆で走るんですから、全国に行って、帰ってくるには、ひと月もふた月も十分にかかる。船の修理もいる、そこで船大工も増えていったわけです。みんなふところかがよくなって、お寺にしても、この狭い島に二十四できたわけです。それが、十、いまは。住職さんがいるのは、もっとすくない。
流行ると、いまでもそうだが、真似をするところがでてくる。で、この回船業はもうかるなあ、ということがあって、するとあとからでてくるほうが優勢になってしまう。前からの水軍はすたれてくる。本土のほうがいいということにもなってくる。それで権利を大阪の回船業者にゆずってしまえということになったのが、二百八十年ほど前。船頭は船といっしょに行ってしまうからいいけど、船大工は失業してしまった。
船大工は、そこから家を建てる大工に変更します。技術的にむずかしいのだけど、その時代、家を建てるときに手伝いに行ってたりして交流があってうまく転換ができた。
家の大工になると、島のなかで仕事がいつもあるわけじゃないから、出稼ぎにいくようにもなった。塩飽水軍だったのが、塩飽大工として、こんどは出て行くことになったんですね。そいで、そのようにしていって、善通寺の五重塔、丸亀の山北神社、岡山の、これは国宝になってますが、吉備津神社、国分寺の五重塔といった宮大工としても、塩飽大工が名をはせたということじゃな。一所懸命はたらいたものですから、それでまたふところがよくなったし、出先で土地を買い、家を建て、生活できるようにする、女房、子供を呼ぶ、島の家はだんだん閉まっていく。そして現在にわたって空き家が多い。阪神方面に出ているひと、多いです。簡単にいえば、そういうことなんです。
わしも島から出て、神戸に住んどったのよ。これは家族で住んでた。この島で生れて、神戸に行って、もどってきたわけ。親父は船員だった。
食事も何も配給制になって、ひさしぶりに外食に出て、何か食べようと親父がいったことがありました。神戸に住んどったから、阪急会館の食堂でランチをたのんだわけ、コースで。たのんだはいいけど、「あら、お父さんこれどうしたん。となりのひとはお米のごはん食べてる。ぼくたちのはうどんのごはんだよ」、子供だからそういったの。干しうどんを細かく切ってむしたのがでてきた。親父は、「うっかりしてた、AランチとBランチがあった、これはBランチだ」(笑)。ごはんの代わりにうどんがでるような時代なんです。そのような調子でおったわけですが、疎開せにゃならんという。第一番の空襲がきたわけだ。みんな疎開しないといけない。で、(国民学校の)五年生のときに疎開でもどってきたわけ。
それがもう七十五歳になっとるんだから。いろいろな思い出があるけれども、いいか、わるいか。いまから考えればまあまあよかったんかな。黒いのこれ、開けたら?(福永注・高島さんは未開封のオールドパーを持参して来られ、それがテーブルの上、みんなの目の前にあるのです)
飲むためにもってきたんやから。ぶどう酒は香りなんかが抜けるけど、これは残っても大丈夫だから。こういうのは、舌のうえにちょっとのっけて、口のなかでもてあそぶ感じでな、ビールみたいにグーッとじゃなくて、舌でころがすような感じで。
まあ、そんな具合で、移り住んだ塩飽大工たちは、移住先に家も建てているから、なかなか帰ってこれない。でも、先祖はこっちに墓があるから盆やなんやかやでもどってきます。空き家でも、雨漏りがあると応急手当てをしていく、そうしてきれいに残っている。
で、昭和六十年の国の伝統的建造物の指定もあって年に二、三軒づつ修理して、徹底的になおした。そしていまのような保存地区ができあがったわけです。まあ、もっといえばあとの維持が大変だ、あるいは空き家対策とかいろいろありますが。
こないだもいったけれども、大工になったのは、本心は高校に行きたいんだけど、行けないな、と。自分のところが裕福でないといけなかった。下宿しなきゃとかあるから。遊んどってはいけないし、それでモノを作るのが好きだから、大工になるか、と。女房の親の世話で、大工になるため岡山に出たわけ、十八のころ。笠島の港から小さい船で出るんだわ。昔は下津井鉄道というのがあったの。軽便鉄道ともいいよったけどね。茶屋町まで行って、茶屋町から、宇野線に乗り換えて岡山駅まで行くと、警察が荷物を全部検査しとる。人前で開けさせられた。そういう時代だったから。
住み込みで、朝起きたんはいいけれども、何もすることがないから新聞を読んでたんですな。そしたら親方から「大工仕事を習いに入った早々、新聞読むとはなにごとだ」と怒られた(笑)。「庭の掃除から風呂から、全部やれ」と。仕事を教えてもらうんだから、しゃあないな、いわれる前に、よし、やるわ、というような調子でやりました。あとになって「お前ほど気がきくやつはおらなんだ」といわれるようになった。
食べることでも、そうで、大工には、家を建てているその家のひとが、昼と晩は食べさせてくれるのよ。新入りだから、いちばん最後、古参のごはんのあと、ようやく自分が食べだしたら、はあ、古参の先輩はもう「おかわり」ゆうとる。親方にしてもよ、こっちが食べかけたら、「おい、そろそろやるぞ」と食べるひまがない(笑)。だから自分が上(親方)になったら食べるときはゆっくり食べよ、と、それだけはいった。年明けして礼奉公一年して、二十二歳のときから、いろいろ岡山で仕事しました。生まれ持った習性というかな、仕事がひとよりずぬけとったんだな、じぶんでいうたら悪いけどもよ。どこいっても、案外スムースに、いい場所いい場所、下っ端の仕事はせずに、家でいえば床の間とかそういう重要なところをまかされた、というわけじゃな。
笠島に帰ってきたのは、たまたま仕事で、「あんたくらいしか、たのむひとおらんけん」といわれてもどってきて、そしたら同じくらいに、まち並み保存地区の修理の仕事が、ちょうど、ずっと仕事が出たわけね。岡山にもどらず、こっちで保存地区の仕事をしてくれ、ということで、いくつか修理を手がけました。まあ、昭和五十八、九年から、もう二十年以上、こっちにおる。どっちむいてもこっちむいても、ふるさと、知っているひとばかり。
自分が昔からの仕事を知っているから思うんだが、このごろのひとの場合はむちゃくちゃなんだ。ビスでとめるとかなんとかして、ほぞ(みぞ)のいれこみとかぜんぜんないわけ。木は乾いてくると、「やせる」というのですが、ちぢんできます。一年経つとぐずぐずになる。いまの住宅は、建ったときはいい。けれど、ぐすぐすになってしまう。ボルト、ナットでしめたとしても、木はやせるもんであって、それは鉄骨であっても、年月がたつとゆるんでくるから。
島の保存地区の家が残っているのは、ゆるみがないということ。一軒の住宅に一年も二年もかける。なんで保存センターが百六十年もつかというとそういうわけなんです。いまは、耐久率は二十年から二十五年になっとるから、ローンがすんだら家もすんだということになってる(笑)。手間をかけたほうがながもちする。つきあいも、だからながくなります。ここの町並みの修理にしても、予算超過しても、自腹きってもやるということになる。図面にでてないことまでやっているということは素人にはわからんだろうけどな。


保存地区は焼き板ということになっていて、焼き板うってますわな。いっけんぼろぼろしそうで、しません。防水、防虫、そういう効果もある。ただ、コストがあがるし、使わないことがある。昔のイメージ、くずれてしまいますよ、と設計士にいったら、あたまかかえておったけどね。いま、焼き板、高いんでね。手で焼くのと、工務店から持ってくる焼き板は、ちがいます、焼いた肌が。工務店のは、鉄板を焼いておしつけるわけ。つまり表面だけです。自分らが焼くのは、板をよく乾燥させて、煙突みたいに三角に組んで立てて、縄でくくる。そして下から火をつけて焼くんですが、そのままだと燃えてしまうから、焼き具合を見ながら適度にまわしていく。そして自分が、このとき、と思ったところで縄をほどいて、水をかける。岡山にいたころは、用水があちこちにあるからそこに放り込む。
姉によくいわれた。「お前こんなていねいにしてたらほかのひとに仕事とられてしまうで」、と。でも、年数が経つほど価値がわかるんやから。「はようできたらええわい」というひとはそういうひとを選べばいい。いまはいないでしょ、焼き板を焼くひと。ぼくは焼くけどさ(笑)。
(構成・福永信)