
2009年05月26日
地域とアート3 瀬戸内アートウェーブ 梅谷幾代

さて本島でのアートプロジェクトについて書いていて、ブログが消えてしまうと、めげそうになる。
このプロジェクトは丸亀沖にある本島・笠島地区の国の重要建造物群を拠点に平成18年9月より12月まで実施したアーティストレジデンス活動です。伝統的な建造物を保存するだけでなく、積極的に活用するモデル事業を文化庁が募集し、そのモデル事業として採用され、文化庁委嘱事業として実施しました。
詳細は考察は、後日お話しますが、本日は本島での活動について書いた拙文を掲載します。
プロジェクトについて
SAW代表 梅谷幾代
各地で地域づくりのために、アートを活用した試みが行われている。香川県では、アート拠点を名所化し観光事業の振興による地域経済の活性化を目指している。丸亀市は、駅前に美術館やギャラリーがあるため、国内外から美術鑑賞のための人々が訪れている。しかし、残念なことに地域とアートファンが交流し、浸透するような動きはまだうまれていない。文化芸術を生活の中で楽しむことは人々の潤いになり、幸福感へ通じるひとつの入り口となるが、美術それ自体は生産性はないため、一般的な地域の人々との結びつきは薄く、ある一定の隔たりがある。独創性豊かで新たな価値を生み出す文化芸術活動を市民の活動として定着させることで、はじめてアートを通じて地域が自ら再生し活性化しようとする力となるのだろう。アートを地域の活性化に貢献させるには、地域に浸透させ創造しようとする市民を育てること、この視点が重要だ。
このプロジェクトは、瀬戸内アートウェーブ(SAW)によって本島笠島地区で実施されたアーティスト・インレジデンス活動である。『アーティスト・インレジデンス』とは、アーティストが日常の場所から離れ、ある地域に一定期間滞在しながら場所と関わり、制作するというもので、地域と関わったプログラムが多いことが特徴である。
SAWは、このプロジェクトの目的を「本島ににぎわいを取り戻すこと」や「多くの観光客を招き入れること」とは考えなかった。これは暮らす人と訪れた人との異なる環境や価値観の相互交流である。島の歴史や暮らしに触れることにより新しい価値を発見し、自らの独創的な創作活動を目指すことだった。結果私たちは “豊かさ”の内容や“暮らしやすいまち”の条件を自らに向かって問い直し、幸福の条件について向き合う機会を得ることになった。
■ 瀬戸内アートウェーブ誕生へ
瀬戸内海を臨む四国に生まれ、暮らす私にとって瀬戸内の海が古くから交通の動脈として果たして来た役割を見聞きしている。海を交通路として島には人やものやさまざまな情報が行き来し、内陸部よりも繁栄していた歴史があった。海は、メディアそのものだったのだ。現在、本州と四国は3つの架橋によってつながり、人やものが行き来している。島や海は人々の経済活動から離れ、過疎が進んでいる。島と内陸部の関係に焦点をあてたプロジェクトをいつか実現したいと考えていた。美術を楽しむことと歴史を知ることは、アプローチは異なるが、想像力が刺激される瞬間は同じだ。美術鑑賞を目的に人は美術館を訪れる。ギャラリーを訪れる人は、鑑賞に加え、新しいアートが生まれる現場としてコミュニケーションすることや作り出すこともその目的に含まれる。アートは創造力の源だ。ギャラリーを訪れる人々の思いやエネルギーが集めることはできないだろうか?アーティストのための活動拠点を作ってみてはどうか?その場所をイベントやWebや出版物など様々なメディアを通じて発信するための、共同で運営する活動に育てられないだろうか?瀬戸内海からこの場を共有して、アート活動の発信・受信という双方向の交流をさせたい。すべては、ここからはじまり、見えてきたのが瀬戸内アートウェーブだった。
そこで市にアートプロジェクトを提案し、協力をもとめた。さらに平成18年度から文化庁は、「伝統的建造物活用モデル事業」の事業案を募集していた。地域で活動するNPO等の市民による『人々に親しまれる形での建造物を活用するモデル事業』の募集だった。
■ 本島でのアートプロジェクト
6月10日美術家、大学生、地元に暮らす人々などが集まり、はじめて本島についてのミーティングを行う。文化庁の応募締め切りまで1ヶ月もなかった。翌日名古屋、岡山、香川などからの参加者7名で本島への現地調査を行う。丸亀沖の本島は瀬戸内海のほぼ中央にあり、地理的に重要な場所のため、数多くの文化財が遺されている。お年寄りが多く過疎が進んでいる。児童数も減少し小中学生合わせて36名。島にあった食料品店も無くなり、現在は船で買いに行かなければならない。畑で自給生活のための野菜づくりをしている。この島の人々は、船の漕ぎ手や船大工など技術者が多い。江戸時代中期から造船の技術を活かして全国各地で大工として腕を揮った。結果的にそのまま残った集落が、瀬戸内海の港町として保存された。本島の北東部にある笠島地区は、塩飽水軍の本拠地の港町で、江戸時代頃から廻船問屋が立ち並んだにぎやかな場所だった。通りに面して丸亀市が保有している旧真木邸と呼ばれる建造物が一棟ある。幕末から明治にかけ、ここの家人は神戸で西洋家具の修理業を始め、神戸の西洋家具の歴史はここから始まったそうだ。建造物が保存されているが、水道の設備が施されていない。電気設備はあり、イベントに使用している。暮らしの気配はないが土間のたたきなどから昔の生活がしのばれ、通りに面した千本格子の窓は美しい。観光地化されていないため、飲食店やみやげ物店はなく、人の営みがない建物は空ろだ。整然と保存されたこの地区に、人の気配を取り戻し、現在の時間を流れさせたい。保存地区の指定以降、お年寄りたちの手でNPO笠島まち並保存協力会を立ち上げ、江戸時代の建物を運営する民宿事業、ふれあい茶屋といううどん店の運営を始めている。しかし、民宿事業は立ち上げたばかりで、今年がはじめての海水浴シーズンを迎えようとしていた。笠島の人々との協働事業には出来そうになかった。来年の活動に向けて準備しようと考えたが、メンバーの中から自分たちでグループを立ち上げ、活動してみようという意見が出る。島の生活は簡単ではなかった。必要なものはすべて丸亀から持ち込まなければならない。訪れる私たちを理解してもらうための時間はあまり用意されていない。アーティストの発想や考え方が刺激となる場合がある。アーティストが地域の人と具体的に作品を作ったり、地域づくりを考えたりすることもあるだろう。様々な思いが錯綜し、市の保有する伝統的建造物旧真木邸を中心にアーティストが島に滞在して活動を行うというプロジェクト案を作成した。このプランが委嘱事業の候補になっているという連絡が文化庁からあったのは、7月末だった。事業期間は、平成18年度内に実施すること、平成19年3月17日までに完了しなければならなかった。文化庁の担当官が、調査のために本島を訪れたのは8月4日だった。しかし、事業計画が選定された後もすぐに本島での活動を開始することは出来なかった。文化庁にとっても新しい事業の為に、庁内の調整に時間がかかり、SAWのプロジェクトが、委嘱事業となったために、事業開始の通知を受ける9月11日までの一月間、広報告知活動はもとより、具体的な経費を使う活動は何も出来なかったのだ。振り返るとかえってその為に、私たちは展覧会というイベントではない方向へ向かって動き出すことになった。現在のこの島の状態で、多くの人を迎え入れる目的でアート展を行うことは、相応しいことではないと感じる。島の人々の生活を乱さないことを考えた。自分たちのルールや言葉でおしゃべりすることは今ここでは必要がない。それよりも、そこで生きてきた人々と出会い、語ることばに向き合うことだ。塩飽水軍や本島の歴史は、数多く本に書き残され、語られている。このプロジェクトは、訪れたアーティストが島の人々の暮らしや歴史の記憶を反映する鏡のような立場になろう。体験しないと知りようのないここの暮らしや個人レベルの歴史を取材しよう。言葉を受け止めることが出来る人。そこでレジデンス作家として、美術に近いところで活動を行っている小説家としての福永信を考慮した。この場所に訪れてもらう前に、まず活動状況やここの暮らしをWEBを通じて発信する。次にDVD映像や出版物などによって間接的にこの場所と活動を紹介して行こうと考える。
■支援企業募集
今回の事業費では、出版物制作費が不足だ。そこで出版物を制作するための支援を得るため、事業委嘱の通知が届いた9月11日以降、あたふたと支援者を求め駆け回ることになった。丸亀市文化課の担当者の尽力をいただき、県内の企業数十社を訪問した。一行5文字で3行程度、簡単にまとめた紙芝居を作り、事業説明を行なった。笠島地区の自治会長とまち並会長への説明会を行なったときに、紙芝居を使って説明を語り終え、精一杯の好意を示しながら「なにかご質問はありますか?」と尋ねると、即座に「レジデンスとか、ワークショップとかカタカナばかりでさっぱり意味がわからん。」と反応がある。自分たちの言葉で説得しようとしていた。帰りのフェリーの時間だ。日を改め、もう一度説明を行うことを伝え船に乗る。日本語に置き換え、さらに思いを伝える言葉を模索する。丸亀近隣の地元企業は、本島の現状について理解があり、憂慮していた。SAWの活動に対して「がんばりなさい」と理解を示して支援をいただいた。
■ レジデンス開始
福永信は9月28日から9月12日までの15日間島に滞在し、アーティストインスクールやワークショップなどを行って人々と交流した。SAWも入れ替わりつつ、彼をサポートし島の人々や暮らしに触れていった。産業の衰退による人口減少と高齢化、抱える悩みは深刻だ。ここでは、なんとかなるだろうと思っていると、飲食にも事欠くことがある。欲しいものがたやすく手に入るわけではない。がまんすることもしばしば経験する。海は目の前だが、魚が釣れたことはなかった。防波堤で釣りをしている人もしばしば見かけた。夕食の食材を分けて貰おうと、話しかけたこともあった。アオリイカを釣っていた。沖縄沖のアオリイカが海流のせいかこの辺りでも獲れるのだという。自然環境が変化しているせいなのだろうか。日が落ちると静けさの闇だ。音が無い、もしくはかすかな波の音、鳥の声。深夜のようにも思え、時間がわからなくなる。体感する時間のスピードが後退するように遅くなって行く。波の音、潮の香り、頭の上にひろがる空の大きさ、視覚、嗅覚、五感の緊張が一挙に開放される。普段都市の雑踏で様々な音にさらされていると、気づかぬうちに神経は覚醒している。自己実現、好奇心、日常への刺激とこのうえなく欲深く、日常化した緊張によって聴覚、視覚、五感は鈍化していると感じる。数日を過ごすうちに、ここの豊かさが見えてくる。その豊かさとは、自然のもつ生命力を受けることだ。島の小学生・中学生たちが感じる音、島の暮らしの音をテーマにワークショップを行った。笠島地区の人々と話すきっかけに思いつくひらがなを書いてもらった。「おかしなことを言う・・」と戸惑いながらも、ひらがなを書いてもらい、ここでの生活やこの場所を保存しようとする思いを集めた。手土産のお菓子のお礼にと、生きた魚を届けてもらい、にぎやかだった昔の笠島の風景やまつりのお囃子を謡っていただくこともあった。旧真木邸の向かいにある真木(さなぎ)邸は保存センターとして笠島の歴史を公開している。廻船問屋だった建物はふれあい茶屋として、美味しいうどんを食べさせてくれる。その先に日用品を売っている森中商店がある。なにかとこの地区の人々にお世話になった。短期間だったが、レジデンスやワークショップを通じ、言葉を交わし、困惑したり、笑いあったり、いくつかのささやかな交流が生まれた。福永は日記を書くことで、人々との豊かなやり取りを書きとめていった。それを、活動告知と笠島地区を含む本島の情報を発信するために、Webに掲載していった。9月12日以降からはSAWが交代で短期の日程で滞在した。メンバーの中のアーティストは、それぞれの創作に結びついたようだ。11月23日は、笠島の人々のふれあい祭りの日だ。私たちも祭りに溶け込む形で、島の人々に活動の成果を見てもらおうと展覧会を計画した。福永信は書き続けた日記とあつめたひらがなで新たな日記を書き下ろし、旧真木邸の各部屋に作品を設置して、建造物を見てもらうことにした。子供たちが撮った音の写真はどれも素敵なものだった。イベントとして、子供たちに参加してもらい、どんな音が聞こえたのか口や楽器による発表会を行った。祭りの日、千本格子の窓には手作りの竹筒に挿された花で飾られ、うどんや野菜のバザーでにぎやかだ。尾上神社では餅つきや太鼓の演奏、笠島のお年寄り手作りのまつりだった。いつも静かな場所が人でにぎわい建物には人の声と熱気が満ちていた。建物に現在の時間が流れた一日となった。笠島地区には現在90人が暮らしている。人口減少、少子化、食料不足、この島の抱える悩みは、そのまま将来のこの国の悩みに重なっている。この島の人々は、人名という自治制度を持ち、いつの時代も生き抜くために暮らしのかたちを変えてきた塩飽水軍の末裔たちだ。現在も自らの手で作り出そうと独創的で創造的だ。
SAWは、この活動とともに変化していった。まるで海の泡のように、ゆるやかに集まり、様々な想いが錯綜し、重なり、あるいは流れて行った。異なる価値観に触れたまなざしはやわらかい。そのもっと奥にある多様な深い命へたどりつくまなざしだろうか。どうやら私たちは途方もなく大きなものの一部にやっと触れたようである。島の人々は、「おぅ、もう帰るんか?」「こんどはいつ来るの?」と待っていてくれるようになった。この活動は、いま、はじまったばかりである