
2009年05月28日
地域とアート6 本島の場合 毛利義嗣さんのテキスト
高松市美術館 学芸員 毛利義嗣さんのテキストです。

しまじまのしじまに
毛利義嗣 errorprogram
展覧会場になっている屋敷から神社へ向かう中ほどの、地区の人がこしらえるうどんのバザーで私たちが並んでいると福永さんも食べにやってきた。少し遅い昼ごはん。顔見知りなのだろう、小学生くらいのたぶん近所の女の子たちに声をかけられている。からかわれているのか、からかっているのか。うどんは舌が痛くなるほど熱くて、おいしい。そこからゆるい坂道を登るとすぐに神社の境内で、少しばかりの露天店があって向こうで餅つきの準備をしている。手前には商品名の入ったモダンな提灯に飾られた小さめの山車が置かれている。その間の道を抜けて鳥居をくぐりトコトコトと階段を登って行くと、右手に急に視界が広がり、海があった。
この日、少し早起きして高松から丸亀まで車で走り、本島行きのフェリーに乗る。初めてだった。「アーティスト・イン・笠島」のイベントに行くためだが、この日がもともと島の祭りの日でもあるということはフェリー乗り場のチラシで知った。乗客が多い。島から出て行った人もこの日だけはと、大勢帰ってくるのだと後で聞いた。ずいぶんきれいな船だと思っていたら、船内のアナウンスで、このフェリーは新造で今日が初航海だといっている。以前からこの展覧会を手伝っていた知り合いのマキちゃんも同じ船に乗っていて、前の船と新型船の違いなどを探索している。下り坂との天気予報だったがまだ晴れ間が見えている。
船はすぐに島に着いた。港から笠島地区まで車で5分くらい。会場の辺り一帯は祭りに賑わっている。真木邸というよく手入れされた立派な屋敷に入るとそこは薄暗く、どこか酸い木や土の臭いがする。大阪万博の年を過ぎるまで土間で釜戸炊きだった私の生家を思い出す。靴を脱いで畳の間に上がると、福永さんたちの作品があった。福永さんもいて誰かと話していたのでその後で私たちもこんにちわをして、彼の作品を見た。たくさんの写真も9冊の「らくがきちょう」も、そこにあるのが当然のようにしてそこにあって、私は少し幸せな気分になった。古い家に新しい人の匂いがするのはいいことだ。
ここのところ島と縁があった。10月6日。直島というこれも瀬戸内海の小さな島に渡ると、作家の大竹さんがごきげんな屋敷を作り終えたところだった。それはまた奇怪な作品で、触れば紫の海の匂いがして、見れば灰褐色にくすぶる空の裏側をネオンの光が飛ぶといった風情のものだった。それで、12月20日。清澄白河駅から地上に出て、あさりの炊き込みご飯とか深川のおいしそうな食べ物屋が並ぶ商店街を抜けて殺風景な現代美術館に行ったのだが、近づくと、屋上に「宇和島駅」が見えた。前に直島でも見た。もっと前に水戸でも。子供の頃に宇和島駅で見たかもしれない。たぶんどこでも見えるのだろう。
年を越して1月2日には鹿島という愛媛の小島に久しぶりに船で渡って、慣れない磯釣りをした。快晴で風が強い。老いた家族と若い家族と中間くらいの家族で行った。何かの魚が三匹釣れた。5時すぎには西の海に日が沈み馬鹿みたいにきれいだ。撮っといてよと子供に言われるが撮らなかった。
本島の神社の境内から見渡す海は少しだけビデオで撮った。ここもまた馬鹿のようにきれいな光景ではあったのだが、雨の前の湿った空気が私の緊張を和らげたからだ。少し煙るくらいの光景が人間にはちょうどいいのだろう。書き留めたり写真を撮ったり録音したり録画したり。あまりに明確で美しいものは記す意味さえないし、記せない。
道を下ってまた屋敷に戻る。ギターや歌のライブが始まる。雨が降り始める。ありがとうと言ってライブが終わる。もう帰る時間。でもまだ外は明るい。子供たちは冷たい雨の中でその辺りを走り回っている。福永さんがまた、さっきの女の子に加えて男の子たちにもかまわれたりかまったりしている。彼は今回の滞在で何か変わったのだろうか。私自身は何か変わったように思える。おだやかな一日だった。2006年11月23日のことはたぶんずっと忘れない。
しまじまのしじまに
毛利義嗣 errorprogram
展覧会場になっている屋敷から神社へ向かう中ほどの、地区の人がこしらえるうどんのバザーで私たちが並んでいると福永さんも食べにやってきた。少し遅い昼ごはん。顔見知りなのだろう、小学生くらいのたぶん近所の女の子たちに声をかけられている。からかわれているのか、からかっているのか。うどんは舌が痛くなるほど熱くて、おいしい。そこからゆるい坂道を登るとすぐに神社の境内で、少しばかりの露天店があって向こうで餅つきの準備をしている。手前には商品名の入ったモダンな提灯に飾られた小さめの山車が置かれている。その間の道を抜けて鳥居をくぐりトコトコトと階段を登って行くと、右手に急に視界が広がり、海があった。
この日、少し早起きして高松から丸亀まで車で走り、本島行きのフェリーに乗る。初めてだった。「アーティスト・イン・笠島」のイベントに行くためだが、この日がもともと島の祭りの日でもあるということはフェリー乗り場のチラシで知った。乗客が多い。島から出て行った人もこの日だけはと、大勢帰ってくるのだと後で聞いた。ずいぶんきれいな船だと思っていたら、船内のアナウンスで、このフェリーは新造で今日が初航海だといっている。以前からこの展覧会を手伝っていた知り合いのマキちゃんも同じ船に乗っていて、前の船と新型船の違いなどを探索している。下り坂との天気予報だったがまだ晴れ間が見えている。
船はすぐに島に着いた。港から笠島地区まで車で5分くらい。会場の辺り一帯は祭りに賑わっている。真木邸というよく手入れされた立派な屋敷に入るとそこは薄暗く、どこか酸い木や土の臭いがする。大阪万博の年を過ぎるまで土間で釜戸炊きだった私の生家を思い出す。靴を脱いで畳の間に上がると、福永さんたちの作品があった。福永さんもいて誰かと話していたのでその後で私たちもこんにちわをして、彼の作品を見た。たくさんの写真も9冊の「らくがきちょう」も、そこにあるのが当然のようにしてそこにあって、私は少し幸せな気分になった。古い家に新しい人の匂いがするのはいいことだ。
ここのところ島と縁があった。10月6日。直島というこれも瀬戸内海の小さな島に渡ると、作家の大竹さんがごきげんな屋敷を作り終えたところだった。それはまた奇怪な作品で、触れば紫の海の匂いがして、見れば灰褐色にくすぶる空の裏側をネオンの光が飛ぶといった風情のものだった。それで、12月20日。清澄白河駅から地上に出て、あさりの炊き込みご飯とか深川のおいしそうな食べ物屋が並ぶ商店街を抜けて殺風景な現代美術館に行ったのだが、近づくと、屋上に「宇和島駅」が見えた。前に直島でも見た。もっと前に水戸でも。子供の頃に宇和島駅で見たかもしれない。たぶんどこでも見えるのだろう。
年を越して1月2日には鹿島という愛媛の小島に久しぶりに船で渡って、慣れない磯釣りをした。快晴で風が強い。老いた家族と若い家族と中間くらいの家族で行った。何かの魚が三匹釣れた。5時すぎには西の海に日が沈み馬鹿みたいにきれいだ。撮っといてよと子供に言われるが撮らなかった。
本島の神社の境内から見渡す海は少しだけビデオで撮った。ここもまた馬鹿のようにきれいな光景ではあったのだが、雨の前の湿った空気が私の緊張を和らげたからだ。少し煙るくらいの光景が人間にはちょうどいいのだろう。書き留めたり写真を撮ったり録音したり録画したり。あまりに明確で美しいものは記す意味さえないし、記せない。
道を下ってまた屋敷に戻る。ギターや歌のライブが始まる。雨が降り始める。ありがとうと言ってライブが終わる。もう帰る時間。でもまだ外は明るい。子供たちは冷たい雨の中でその辺りを走り回っている。福永さんがまた、さっきの女の子に加えて男の子たちにもかまわれたりかまったりしている。彼は今回の滞在で何か変わったのだろうか。私自身は何か変わったように思える。おだやかな一日だった。2006年11月23日のことはたぶんずっと忘れない。
2009年05月28日
地域とアート5 吉川神津夫さんのテキスト
このところ、記録集のためのテキストの一部を掲載しています。
地元メディアからは、解りにくいといわれた本島でのart projectでしたが、かねてより美術の中でどのように受け止められたのか。Webを通じても発信するべきというご意見は、いただいていたので、この機会にご紹介しようと考えました。
日をわけて掲載しています。
昨日はアーティストでもある池田剛介君の美術批評
本日は、徳島県美 学芸員である吉川神津夫さんのテキストです。

吉川神津夫 YOSHIKAWA Kazuo
徳島県立近代美術館学芸員
「交流」の外から
私が本島を訪れたのは、12月11日の月曜日、その昼間のほんのわずかの時間である。瀬戸内アートプロジェクト(SAP)では、ワークショップや作品制作のために作家たちが滞在した時期やオープニングのイベントで賑わった時期を既に過ぎていた。
丸亀港から本島まで、わずか30分程度だが、島の人々にとっては日常の足である船に乗っているうちに、どこか異界に行くような気持ちになったものだ。島に着いて港を少し離れると、人影や車をほとんど見かけなくなる。笠島地区に着いてからも同様だった。それ故、普段以上に様々な感覚が敏感になり、見ることができる景色や感じられる音があった。私にとっては、この過程ですでにプロジェクトが始まっていたように思う。
美術作品が展示されていたのは、笠島地区にある重要伝統的建造物群の旧真木邸であった。保存地区の建造物であるが故の制約がある中で、展示された作品は建築物の持ち味を損なうこともなく、地域や展示空間と誠実に向き合っていたものだった。
たまたま裏口から入ったことで、展覧会の始まりが中屋敷作品からとなった。そして、邸内を行き来している中で、この作品が場所に対して最も異なる質感を持っていたにもかかわらず、非常に場となじんでいたことが印象に残った。また、今回の作品の中で唯一の絵画作品であることから、空間全体のアクセントになっていたとも思う。
展覧会画像
中屋敷智生「NIKKI -marugame-」
福永信「笠島日記」
ふるかはひでたか「記憶のカケラ~本島 」
真部剛一「histream KASASHIMA」
得丸成人映像
先述したように、私は島を訪れる過程まで含めて一つのプロジェクトと捉えていたので、展示作品の少なさをそれほど問題とは思わなかった。しかし、いわゆる現代美術のイベント的なものを期待して来島した人にとっては、作品数が少ないことに物足りなさが残るのではないかとも思った。SAPの趣旨が、まず島(笠島地区)の人々と作家たちとの交流であるにしても、第三者に対して開かれているのだから、来年以降、展示場所も含めて検討の余地はあるのではなかろうか。
ところで、福永作品や彼の「音を撮る」ワークショップの記録から交流があったことがわかるものの、展示全体と交流という趣旨が結びつくものではなかった。むしろ、私が交流について考えるようになったのは、本島を訪れた直後、SAPのホームページを読み、また、今回原稿を書くにあたり再読することによってである。


かつて瀬戸内交易で栄えた本島の人たちにとって、交流とは自らのルーツと言えるものだ。時代の変化から人口が少なくなった今でも、なにがしかの交流を求めている人はいるだろう。しかし、いわゆる現代美術の作家たちとの交流を望んでいる人がいたのだろうか。否、そもそも「現代美術」やその作り手の存在自体、人々の意識の外にあったのではないかと思う。
SAP代表の梅谷さんに聞いたところでは、プロジェクトを進めていく過程で、例えば、レジデンスやワークショップという言葉が島の人には通じなかったとのことだった。違った価値観を持つ者同士が交流をはかるためには、まずそれぞれの価値観を相手に伝わるようにすることが必要になる。このことは本島が特別なのではなく、どこの地域、場所にでも存在する問題でもある。島という地勢から問題が見えやすくなったに過ぎない。
さらに、福永信氏の「笠島日記」で触れられているのは、プロジェクトのためにレジデンスして島の人々と交流するとはどういうことかとか、どのようなワークショップが可能かといった模索の過程であった。ある意味、プロジェクトにとってはこの過程が11月の本番と同様に重要だったではないかと思える。あるいは、このプロジェクトが今後も継続していくものであると考えれば、まだ土地をならして種を蒔いた段階くらいなのかも知れない。交流によって新しい価値観が生み出されることへ向けての。
もっとも、交流するもう一方の側である島の人々のことを私は知らない。ただ、「笠島日記」の中に印象に残ったエピソードがある。福永氏の好きなひらがなを一文字書いて欲しいという希望に対して、「大」と書いた人や「きびう」と書いた人のことだ。彼らが趣旨を理解しなかったというよりは、何か文字を書くにあたってこれらの言葉がこぼれてきたように感じたからである。それぞれの言葉の背景はわからない。しかし、わからないが故に、私のSAPへの関心も続いているのである。
地元メディアからは、解りにくいといわれた本島でのart projectでしたが、かねてより美術の中でどのように受け止められたのか。Webを通じても発信するべきというご意見は、いただいていたので、この機会にご紹介しようと考えました。
日をわけて掲載しています。
昨日はアーティストでもある池田剛介君の美術批評
本日は、徳島県美 学芸員である吉川神津夫さんのテキストです。
吉川神津夫 YOSHIKAWA Kazuo
徳島県立近代美術館学芸員
「交流」の外から
私が本島を訪れたのは、12月11日の月曜日、その昼間のほんのわずかの時間である。瀬戸内アートプロジェクト(SAP)では、ワークショップや作品制作のために作家たちが滞在した時期やオープニングのイベントで賑わった時期を既に過ぎていた。
丸亀港から本島まで、わずか30分程度だが、島の人々にとっては日常の足である船に乗っているうちに、どこか異界に行くような気持ちになったものだ。島に着いて港を少し離れると、人影や車をほとんど見かけなくなる。笠島地区に着いてからも同様だった。それ故、普段以上に様々な感覚が敏感になり、見ることができる景色や感じられる音があった。私にとっては、この過程ですでにプロジェクトが始まっていたように思う。
美術作品が展示されていたのは、笠島地区にある重要伝統的建造物群の旧真木邸であった。保存地区の建造物であるが故の制約がある中で、展示された作品は建築物の持ち味を損なうこともなく、地域や展示空間と誠実に向き合っていたものだった。
たまたま裏口から入ったことで、展覧会の始まりが中屋敷作品からとなった。そして、邸内を行き来している中で、この作品が場所に対して最も異なる質感を持っていたにもかかわらず、非常に場となじんでいたことが印象に残った。また、今回の作品の中で唯一の絵画作品であることから、空間全体のアクセントになっていたとも思う。
展覧会画像




先述したように、私は島を訪れる過程まで含めて一つのプロジェクトと捉えていたので、展示作品の少なさをそれほど問題とは思わなかった。しかし、いわゆる現代美術のイベント的なものを期待して来島した人にとっては、作品数が少ないことに物足りなさが残るのではないかとも思った。SAPの趣旨が、まず島(笠島地区)の人々と作家たちとの交流であるにしても、第三者に対して開かれているのだから、来年以降、展示場所も含めて検討の余地はあるのではなかろうか。
ところで、福永作品や彼の「音を撮る」ワークショップの記録から交流があったことがわかるものの、展示全体と交流という趣旨が結びつくものではなかった。むしろ、私が交流について考えるようになったのは、本島を訪れた直後、SAPのホームページを読み、また、今回原稿を書くにあたり再読することによってである。


かつて瀬戸内交易で栄えた本島の人たちにとって、交流とは自らのルーツと言えるものだ。時代の変化から人口が少なくなった今でも、なにがしかの交流を求めている人はいるだろう。しかし、いわゆる現代美術の作家たちとの交流を望んでいる人がいたのだろうか。否、そもそも「現代美術」やその作り手の存在自体、人々の意識の外にあったのではないかと思う。
SAP代表の梅谷さんに聞いたところでは、プロジェクトを進めていく過程で、例えば、レジデンスやワークショップという言葉が島の人には通じなかったとのことだった。違った価値観を持つ者同士が交流をはかるためには、まずそれぞれの価値観を相手に伝わるようにすることが必要になる。このことは本島が特別なのではなく、どこの地域、場所にでも存在する問題でもある。島という地勢から問題が見えやすくなったに過ぎない。
さらに、福永信氏の「笠島日記」で触れられているのは、プロジェクトのためにレジデンスして島の人々と交流するとはどういうことかとか、どのようなワークショップが可能かといった模索の過程であった。ある意味、プロジェクトにとってはこの過程が11月の本番と同様に重要だったではないかと思える。あるいは、このプロジェクトが今後も継続していくものであると考えれば、まだ土地をならして種を蒔いた段階くらいなのかも知れない。交流によって新しい価値観が生み出されることへ向けての。
もっとも、交流するもう一方の側である島の人々のことを私は知らない。ただ、「笠島日記」の中に印象に残ったエピソードがある。福永氏の好きなひらがなを一文字書いて欲しいという希望に対して、「大」と書いた人や「きびう」と書いた人のことだ。彼らが趣旨を理解しなかったというよりは、何か文字を書くにあたってこれらの言葉がこぼれてきたように感じたからである。それぞれの言葉の背景はわからない。しかし、わからないが故に、私のSAPへの関心も続いているのである。