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2009年05月27日

地域とアート4 本島での活動 福永信

アーティストイン笠島~『記憶の集積を創造の海へ』の初稿です。

地域とアート4 本島での活動 福永信
2006年10月x日 海が見える大倉邸にて
『高島昭夫さんをかこんで』

聞き手 SAW
                               福永信



 本島町笠島地区の小高い丘陵部に中世の城跡がある。笠島地区は、城下町としての雰囲気が残る集落であり、天然の港を活かした瀬戸内の港町として、国の伝統的建造物群保存地区に選定された。保存地区の中心部マッチョ通り(町通りの転訛でこう呼ばれる)の門に真木(さなぎ)邸がある。現在は、笠島まち並保存センターとして公開している。
高島さんは、保存センターの館長として、また笠島地区の自治会長としてSAWの相談役、調整役として、なにかとお世話いただいている方である。現役の笠島大工さんでもあるそうだ。そこで日中はご多忙でお話を伺う機会がないため、夕食を共にしながら、笠島の歴史、高島さんの個人的な記憶について、お話を伺おうと私たちの宿舎となっている大倉邸にお招きした。
地域とアート4 本島での活動 福永信
自分でもかわりもんじゃと思っとるのよ。仕事の場合は、本職の大工の場合ですよ、これは自分の意地をとおす。でも、いまの仕事、これはとおせません。まち並保存センターの仕事とか、(笠島の)自治会長とか。自分の意見をおさえても、ひとの意見をとりいれないと、と思ってます。若いひとたちから見て、ここ、笠島はどうですか。
一寸ととおっただけでも、雰囲気がわかると思うが、笠島はどういう感じがするか。観光客のひとにも聞くんです。なるべく、みなさん、来てくれたひとにね、へんな感じをさせないような方法をとらないといかんなあ、と。笠島に関しては、きれいでしずかでいいですなあということをいうてくれるひとも多いですが……。家に入っても、あるじゃない。その家に入っただけでも、雰囲気がある。どうもよくないとか、いちばんはじめに一歩ふみこんだときね。
家を建てるとか、修理に入る場合、その家の雰囲気はぜんぶわかるんです。そうしないと修理できません。炊事場も風呂も見るわけですから。そのひとの趣味にあわせないといけないし、ここは夫婦仲がわるいなとか(笑)。その家庭の、ひとのふんどしにあうように修理しなきゃならん。
まち並保存センターでも、お客さん少ないじゃないの。それで、お客さんのほうが気いつこうとることがあるよ。けど、それじゃいけません。自分も(センターの仕事を)やめようと思うけれども、代わりがないわけ。説明が下手でもいいんだけれども、ちゃんとできるひとがなかなかいない。いや、わしもながいことはないんよ。いま、三年め。二年くらい前は、本職しとりました。
本職の大工とはまったくちがう仕事ですが、ただ幸いかな、これまでの仕事のなかで案外、高等教育を受けているひとと話すことが多かったから、(お客さん相手に話すことの多い保存センターの仕事は)べつだん物怖じもせず、こなすことができているかな。
そやなあ。おとぎばなしを話して聞かせるような感じ、バスガイドが説明するような、「右に見えるのはなになにです」というのじゃなくて、おたがいに対話するような感じを心がけておるよ。それで、おおまかなセンだけをいえばいいんじゃないかなと思って、それをモットーにしているわけじゃな。こまこういうと、質問されて返事にもこまるし(笑)。とってつけたことばじゃなくて、そのままのことばでいいんだから。近所のひとと話すようにすればいいんだ。
そうはいっても、「お前うまげにいいよるとくらっしゃげるぞ」とかいうと、逃げてしまう(笑)。これは、まあ、「うまいことばっかりいうとなぐるぞ」ということだけど(笑)。ほかにも、「おえん」は、だめだ、ということですが、「へらこい」(けちんぼう)とか。「こすい」(づるかしこい)とか。でも本島の言葉はいろいろまじっとる。岡山言葉も、関東も、上方も、いろいろなひととつきあってきとるから。わたしらのことばはいろいろミックスしとる。とくに笠島と泊は、むかしながらのことば、すくないな。阪神方面への出入りがあるから。
ここの歴史はそういうものであって、端から端まで見通しがきかないとか、枝道が多いとか、きちんとした交差点になっていないというのは、塩飽水軍のなごり。「マッチョ通り」は、「町通り」。これも方言といえるかな。あんたらが聞き取りにまわるんでも、笠島でも西の方は、漁師の言葉が出てくるよ。

まあ、話があっちゃこっちゃするが、そういうふうにおとぎばなしのようにお客さんと話していると質問のほうも、多なってくる。いま話しているようにね。ある程度、だから知っとかなきゃいかん。お客さんが来んで、ねころんで本読んでいるのも、いろいろ知ろうとしているわけ。千五百何年というより、四百年前ですといったほうがわかりよい。「塩飽水軍」というとき、水軍という言葉についての説明もいる。ふつう水軍いうたら海賊となるんですが、ここの水軍は海賊ではないんです。ここの水軍は商船、貨客船というかな、いまでいや、フェリーでしょう。そういう水軍やな。そやけども、八百年前、それくらいになったら愛媛、尾道のあいだの村上水軍と海賊行為もしていた。交通料金をはらわんだら強奪するとかそういうこともあった。けれども基本は商船、輸送船、そういう水軍。真木信夫さんの『塩飽海賊史』という本には、ここのひとたちは海賊のように船をあやつっていたという意味だと聞いている。
水軍というのは軍のように隊をなしていることで、塩飽としての水軍。本島をふくめて塩飽諸島の七つの島、塩飽七島で水軍だった。八百年前にはそうした海賊行為や、法然上人が島流しにあって、ここのお城の住人が見つけて今は専称寺になっている庵に接待したといういわれがある。四百年前は戦国時代、秀吉、家康の時代です。海賊禁止令なんか出るけど、塩飽水軍の船頭たちは、大きい船だろうが、小さいのだろうが、うまくあやつることから、信用を得て国のおかかえになる。仕事もふえていそがしくなっていった。専属の回船業になったわけ。手当てというか、千二百五十石の土地をもらい、自治領になったわけです。人名制という独自の制度もできた。帆で走るんですから、全国に行って、帰ってくるには、ひと月もふた月も十分にかかる。船の修理もいる、そこで船大工も増えていったわけです。みんなふところかがよくなって、お寺にしても、この狭い島に二十四できたわけです。それが、十、いまは。住職さんがいるのは、もっとすくない。
流行ると、いまでもそうだが、真似をするところがでてくる。で、この回船業はもうかるなあ、ということがあって、するとあとからでてくるほうが優勢になってしまう。前からの水軍はすたれてくる。本土のほうがいいということにもなってくる。それで権利を大阪の回船業者にゆずってしまえということになったのが、二百八十年ほど前。船頭は船といっしょに行ってしまうからいいけど、船大工は失業してしまった。
船大工は、そこから家を建てる大工に変更します。技術的にむずかしいのだけど、その時代、家を建てるときに手伝いに行ってたりして交流があってうまく転換ができた。
家の大工になると、島のなかで仕事がいつもあるわけじゃないから、出稼ぎにいくようにもなった。塩飽水軍だったのが、塩飽大工として、こんどは出て行くことになったんですね。そいで、そのようにしていって、善通寺の五重塔、丸亀の山北神社、岡山の、これは国宝になってますが、吉備津神社、国分寺の五重塔といった宮大工としても、塩飽大工が名をはせたということじゃな。一所懸命はたらいたものですから、それでまたふところがよくなったし、出先で土地を買い、家を建て、生活できるようにする、女房、子供を呼ぶ、島の家はだんだん閉まっていく。そして現在にわたって空き家が多い。阪神方面に出ているひと、多いです。簡単にいえば、そういうことなんです。

わしも島から出て、神戸に住んどったのよ。これは家族で住んでた。この島で生れて、神戸に行って、もどってきたわけ。親父は船員だった。
食事も何も配給制になって、ひさしぶりに外食に出て、何か食べようと親父がいったことがありました。神戸に住んどったから、阪急会館の食堂でランチをたのんだわけ、コースで。たのんだはいいけど、「あら、お父さんこれどうしたん。となりのひとはお米のごはん食べてる。ぼくたちのはうどんのごはんだよ」、子供だからそういったの。干しうどんを細かく切ってむしたのがでてきた。親父は、「うっかりしてた、AランチとBランチがあった、これはBランチだ」(笑)。ごはんの代わりにうどんがでるような時代なんです。そのような調子でおったわけですが、疎開せにゃならんという。第一番の空襲がきたわけだ。みんな疎開しないといけない。で、(国民学校の)五年生のときに疎開でもどってきたわけ。
それがもう七十五歳になっとるんだから。いろいろな思い出があるけれども、いいか、わるいか。いまから考えればまあまあよかったんかな。黒いのこれ、開けたら?(福永注・高島さんは未開封のオールドパーを持参して来られ、それがテーブルの上、みんなの目の前にあるのです) 
飲むためにもってきたんやから。ぶどう酒は香りなんかが抜けるけど、これは残っても大丈夫だから。こういうのは、舌のうえにちょっとのっけて、口のなかでもてあそぶ感じでな、ビールみたいにグーッとじゃなくて、舌でころがすような感じで。

まあ、そんな具合で、移り住んだ塩飽大工たちは、移住先に家も建てているから、なかなか帰ってこれない。でも、先祖はこっちに墓があるから盆やなんやかやでもどってきます。空き家でも、雨漏りがあると応急手当てをしていく、そうしてきれいに残っている。
で、昭和六十年の国の伝統的建造物の指定もあって年に二、三軒づつ修理して、徹底的になおした。そしていまのような保存地区ができあがったわけです。まあ、もっといえばあとの維持が大変だ、あるいは空き家対策とかいろいろありますが。
こないだもいったけれども、大工になったのは、本心は高校に行きたいんだけど、行けないな、と。自分のところが裕福でないといけなかった。下宿しなきゃとかあるから。遊んどってはいけないし、それでモノを作るのが好きだから、大工になるか、と。女房の親の世話で、大工になるため岡山に出たわけ、十八のころ。笠島の港から小さい船で出るんだわ。昔は下津井鉄道というのがあったの。軽便鉄道ともいいよったけどね。茶屋町まで行って、茶屋町から、宇野線に乗り換えて岡山駅まで行くと、警察が荷物を全部検査しとる。人前で開けさせられた。そういう時代だったから。
住み込みで、朝起きたんはいいけれども、何もすることがないから新聞を読んでたんですな。そしたら親方から「大工仕事を習いに入った早々、新聞読むとはなにごとだ」と怒られた(笑)。「庭の掃除から風呂から、全部やれ」と。仕事を教えてもらうんだから、しゃあないな、いわれる前に、よし、やるわ、というような調子でやりました。あとになって「お前ほど気がきくやつはおらなんだ」といわれるようになった。
食べることでも、そうで、大工には、家を建てているその家のひとが、昼と晩は食べさせてくれるのよ。新入りだから、いちばん最後、古参のごはんのあと、ようやく自分が食べだしたら、はあ、古参の先輩はもう「おかわり」ゆうとる。親方にしてもよ、こっちが食べかけたら、「おい、そろそろやるぞ」と食べるひまがない(笑)。だから自分が上(親方)になったら食べるときはゆっくり食べよ、と、それだけはいった。年明けして礼奉公一年して、二十二歳のときから、いろいろ岡山で仕事しました。生まれ持った習性というかな、仕事がひとよりずぬけとったんだな、じぶんでいうたら悪いけどもよ。どこいっても、案外スムースに、いい場所いい場所、下っ端の仕事はせずに、家でいえば床の間とかそういう重要なところをまかされた、というわけじゃな。

笠島に帰ってきたのは、たまたま仕事で、「あんたくらいしか、たのむひとおらんけん」といわれてもどってきて、そしたら同じくらいに、まち並み保存地区の修理の仕事が、ちょうど、ずっと仕事が出たわけね。岡山にもどらず、こっちで保存地区の仕事をしてくれ、ということで、いくつか修理を手がけました。まあ、昭和五十八、九年から、もう二十年以上、こっちにおる。どっちむいてもこっちむいても、ふるさと、知っているひとばかり。
自分が昔からの仕事を知っているから思うんだが、このごろのひとの場合はむちゃくちゃなんだ。ビスでとめるとかなんとかして、ほぞ(みぞ)のいれこみとかぜんぜんないわけ。木は乾いてくると、「やせる」というのですが、ちぢんできます。一年経つとぐずぐずになる。いまの住宅は、建ったときはいい。けれど、ぐすぐすになってしまう。ボルト、ナットでしめたとしても、木はやせるもんであって、それは鉄骨であっても、年月がたつとゆるんでくるから。
島の保存地区の家が残っているのは、ゆるみがないということ。一軒の住宅に一年も二年もかける。なんで保存センターが百六十年もつかというとそういうわけなんです。いまは、耐久率は二十年から二十五年になっとるから、ローンがすんだら家もすんだということになってる(笑)。手間をかけたほうがながもちする。つきあいも、だからながくなります。ここの町並みの修理にしても、予算超過しても、自腹きってもやるということになる。図面にでてないことまでやっているということは素人にはわからんだろうけどな。
地域とアート4 本島での活動 福永信
地域とアート4 本島での活動 福永信

保存地区は焼き板ということになっていて、焼き板うってますわな。いっけんぼろぼろしそうで、しません。防水、防虫、そういう効果もある。ただ、コストがあがるし、使わないことがある。昔のイメージ、くずれてしまいますよ、と設計士にいったら、あたまかかえておったけどね。いま、焼き板、高いんでね。手で焼くのと、工務店から持ってくる焼き板は、ちがいます、焼いた肌が。工務店のは、鉄板を焼いておしつけるわけ。つまり表面だけです。自分らが焼くのは、板をよく乾燥させて、煙突みたいに三角に組んで立てて、縄でくくる。そして下から火をつけて焼くんですが、そのままだと燃えてしまうから、焼き具合を見ながら適度にまわしていく。そして自分が、このとき、と思ったところで縄をほどいて、水をかける。岡山にいたころは、用水があちこちにあるからそこに放り込む。
姉によくいわれた。「お前こんなていねいにしてたらほかのひとに仕事とられてしまうで」、と。でも、年数が経つほど価値がわかるんやから。「はようできたらええわい」というひとはそういうひとを選べばいい。いまはいないでしょ、焼き板を焼くひと。ぼくは焼くけどさ(笑)。
(構成・福永信)




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Posted by ギャラリーアルテ at 12:14│Comments(0)アートプロジェクト
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