
2009年06月24日
お金と政治
これは、芸術家ヨーゼフ・ボイスとエンデの対話からからの引用です。
そのまま掲載します。
第5回「芸術と政治をめぐる対話」エンデ ヨーゼフ・ボイス共著、岩波書店 刊
この対談は1985年2月、ヴァンゲンヴァルドルフ学校で行われました。
二人の創作家が、ものを生み出すという観点から語った政治システム、
「お金に投影された価値」についての見解を取り上げました。
お金で何が買えますか?よく子どもから発せられるようなこの謎かけに、あなたなら何と答えるでしょうか。
食べ物、着るもの、家。一番身近なものはやはり、衣食住でしょう。
なかには信用や愛、「地位と名誉」などという皮肉さえ聞かれるかもしれません。むろん、お金でお金を買うこともできます。法的な善悪はともかく、学歴や投票権まで買おうとする人まで出るほどです。最近は、命さえお金に代える事件すら多発するようになりました。
今の日本は病んでいる。それは恐らく誰もが感じていることだと思います。人とのつながりが薄くなった、あるいは自己中心的になったせいだなどと、社会学者が精神を語ってみても、この病気はいっこうになくなる気配を見せません。
病んでいるのは、お金のシステムなのだ。エンデはあちこちのインタビューのなかで、そう述べています。お金が発言力を買い、教育という名の文化さえ買えてしまうことが問題なのだという姿勢を、彼は生涯とりつづけた作家でした。
確かに、現在の経済が良いと思っている人は少ないでしょう。金持ち優遇と言われ、給与だけに依存している所得のひくい層を8割も抱えながら、満足な税制を日本は打ち出せていません。搾取を前提とする利殖システム、貧しい者をさらに貧しく、富めるものをますます富ませるための経済政策は、さまざまな歪みを産んできました。
普通に食べ物や衣服を買っているぶんには、お金はただの「仲立ち」でしかありません。投資や株式の場合には、お金は商品になりますが、ワイロという使い方になればお金が本来、買えるはずのないもの、買ってはならないものまで買えることになります。
この対談で、ボイスとエンデは「お金の法的なありかた」について語りました。お金というもので、あまりにも多くのものが買えすぎる現代、そのお金の力をどう削いでいくか。エンデはその力を「お金の横暴」と呼びました。
お金で何を買ってはいけない、という規定はありません。むろん良識というものが、ある程度のことは防いでいるでしょうが、いまやお金の権力はとどまるところを知りません。お金の力はなぜ、これほどまでに強くなってしまったのでしょう。お金の力が、日々の生活や精神はおろか、政治の世界さえ支配しているのは、疑いようのない事実です。核を開発すれば発電コストが安くすみ、国が豊かになる。それを後押ししたのはイギリスに始まる、西側の経済理論でした。第三世界の人々が政治圧力にも屈せず自然搾取をつづけ、核実験を行う裏に、軍事力でさえ抑えられないほどのお金の力が見え隠れしているのは事実です。
この対談の中で、芸術家ボイスはこう語っています。政治が政治力だけで動かされる時代は終わった。個々の国の政治を決めているのは、大資本だ、と。では、そういったお金の価値は、だれが決めたのでしょう。
一部の政治家や官僚たちでしょうか。それとも、経済のやり手といわれる、わずかな投資家たちでしょうか。
お金とは法的には何なのか、お金の横暴を規定しているのは誰なのかという問いを、エンデは経済学者や法律家に繰り返しました。にもかかわらず、決定的なことは「わからなかった」と彼は述べています。
実際のところ、お金は法律ではまだ何の規定もされていません。エンデだけでなく、その答えを出せる人は、おそらく今の世界には誰もいないでしょう。まさにお金の力は暴君のように、私たちの生活を振り回しているのではないでしょうか。
金権至上主義はたしかに、多くのものをもたらしました。欲しい物がいつでも手に入る豊かさ。しかしそれと同時に、心の荒廃ということが取りざたされたのは周知のとおりです。物の豊かさと引き替えに黙認したものがあるとするなら、それはお金の権力であったのかもしれません。
日本が空前の赤字を抱え、不況が足元に押し寄せている今、その力はさらに深刻になってきました。マイホームという夢はとうに遠のき、子どもがほしいという夢、人並みの教育という機会にまで、それは及ぼうとしています。
そういうお金の横暴に対し、私たちができることは何でしょうか。生活費のコストダウンを求めて、あるいは軍事につかうお金の削減を求めてデモを行うことでしょうか。
ボイスはいいます。残念ながら、それではお金の根本問題には、指一本触れられない。権力者たちからは「勝手にやっていればいいさ」という批判しかなく、かえって耳を塞がせる結果をまねくと言うのです。
お金の横暴が、政治の力ですら抑えられない。そういう無力感に、私たちはさいなまれている。ボイスは今の政治の矛盾をそう突きました。
しかし何よりの問題は、お金の病気が、私たちの想像力をむしばんでいることなのだ。エンデは何度もそう指摘しています。
「これ以上、どんな経済方法がほかにあるというのか、あったら私の方が教えて欲しい」。政治のプロである議員達が、いまそう漏らしていると、先日の新聞は伝えました。なすすべがない、少なくともそう信じ込まされてきたのは、国のトップである議員達ですら同じです。
ツケをどんどん先送りにするというお金の横暴をやめ、「すっかり古くなったお金の制度」を変える時期に来ている。それは誰もが痛感していることです。それなのに、お金以外のものに誰も確たる価値を見いだし得ないほど、お金の病気は私たちをむしばんでいる。エンデはくりかえし、そう語りました。 エンデは問います。そういう誤ったシステムが戦争などによって白紙にされても、またそっくり同じ金融システムが出来上がってしまうのは何故なのか。それは権力者、いわゆるやり手の経済人が、「新しいことには目もくれない」からなのだと、彼は嘆きました。大切なのは、私たちが、新しい経済のかたちを最初に想像することなのだ、と。
エンデとボイスはこの対談を通し、お金の健康なありかたをさぐっています。仲立ちとしての価値しかもたない貨幣、つまり株式のない市場ということについても、かなり深い議論がなされています。「お金を投資に用いない」ことが資本家の責任ではないか、教育の機会をお金で左右することが何とか法律で止められないものか。そう語ったボイスもこの対談の1年後には亡くなり、エンデもまたこの世を去りました。
私たちはお金に使われているのではないか。その恐ろしい問いの答えは、まだ出ていないようです。