2009年06月21日
空(くう)

仏教は信仰ではなく、哲学だとつくづく思う。
私は琴平町の寺に生まれた。80過ぎても住職だった祖父、母がわりとして小児喘息でよく学校を
休んだ私を育ててくれた祖母。祖母は女子栄養大学の通信教育を受けて、料理が得意な人だった。
明治生まれの祖母は、手作りでモダンな洋食をよくつくってくれた。中学教師だった父によって、
美術や歴史や音楽や文学、つまり文系への興味が深まった。この4人の暮らしだった。
一人っ子でしかも病気がちだった私は、大人に
囲まれて育ち、こどもの頃からおませさんだった。
父と母は9年間恋愛の末、祖父母の反対にもかかわらず結婚し、私が小学校2年のときに離婚した。
人の気持ちは変るものだと思った。いい悪いではない、そういうものだと思った。
父は私を様々な美術展や音楽会につれていった。写真が趣味だった父は、私に写真を
教えようとしたが、それがとても厳しくて、私は写真が好きになれなかった。
次に父は、夕方になると境内でキャッチボールをしようと誘った。喘息もちなので、運動も好きではなかった。
ただ幼稚園からはじめたバレエは好きだったので、出来れば続けたかったが、小学校4年ごろになって
父から「もうやめて、勉強しなさい」と言われてやめた。
父は一度も私を理解しようとはしなかったのではないかとこのごろ思う。でも私は父が大好きだし、大切だと思う。
祖父からは、我を捨てるという沢山のことを学んだ。すべての存在には主体という我がないのだと教えられた。
確かに他の宗教に言われる「神」と呼ばれる絶対者も無我ではないのかな。
絶対者という神を否定していっているのではありません。神と呼ばれるのは私たちであること。
ねこやトリには神はなくて、私たち人間との関係の上にだけ神は存在している。
私が、なくなった祖母や祖父や父のことを思い出し、話すとき家族はまだ生きている。
私が死んで、祖父母や父のことを思い出せなくなったとき、父や祖父母は存在が消える。
地球のことも私が死ねば、私が意識する地球は無くなる。
仏典の中にも神が出てくる場面は多くある。ただ物語にとらわれるのでなく、
関係つまり縁起によって現れたものと読むべきなのだ。
複雑系の科学の概念と繫がると思うことがあった。
多くの意味で、仏教は他の宗教と根本的な違いを持っているのです。
聖書の読み方も同じように読んでみるとどうだろうか?
Posted by ギャラリーアルテ at 15:08│Comments(0)
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