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Posted by あしたさぬき.JP at

2009年10月23日

【保存地区の概要】

丸亀市文化課より
笠島の町並みについての資料をいただきました。
特異な特徴がよくまとめられているので
皆さんにもご紹介したいので、ご覧ください。

『丸亀市塩飽本島町笠島伝統的建造物群保存地区保存計画のあらまし』より    

【保存地区の概要】
沿革
  笠島は、瀬戸内海の南北を扼す塩飽諸島も中心島である本島の東端に位置する。ここは瀬戸内海交通の要衝であり、古来塩飽水軍の最重要拠点としての地位を占めていた。
  笠島には、城根・中之浦・新在家・山根・屋釜の5集落を有し、城根・中之浦は家並み続きであるものの、新在家・山根・屋釜は山越えで離れている。保存地区はその中心集落である。笠島といえば、一般にこの山根地区を指す。
 建永2年(1207)法然上人が配流の途次に一時身を寄せた、地頭駿河権守保遠入道西忍の館は、この笠島の城山にあったし、16世紀後半に亡ぼされた代官福田又次郎は城山に居城していた。 塩飽の水軍は、天正5年(1577)信長より触掛りの特権を得、同18年(1590)秀吉は塩飽領1250石を船方650人に与え、家康もこれにならい、以来幕末まで、他に例を見ない いわゆる「人名」 による自治が行われていた。
江戸初期には、幕府御用船・水主役を勤め、全国的な海上輸送を一手に引き受け、多くの船持衆が生まれ、豊かな漁場による漁猟海上がこれを補って、塩飽の最盛期を迎えている。この頃、笠島は塩飽諸島中で最良の港 (停泊地、修理場) であった。
  しかし、元禄頃(17世紀末)から全国的に廻船業が成長するにつれ、塩飽の海運業は衰退の一途をたどり、18世紀中頃には、他国へ出稼ぎに行かざるを得ない経済状態に陥り、笠島の港としての機能は与島に奪われてしまった。
出稼ぎは、これまでに培われてきた航海技術・造船技術の優秀さから、加古稼・大工稼が主で、 「人名」 はほとんど漁猟働はしなかった。こうして、中国地方を中心に名を高めた塩飽大工が発生し、各地で活躍し始めることになり、時代が降るにつれてその傾向は増大する。

【現況】
出稼ぎは戦後も続き、島に土地・建物を残しながら島外に居住して他の職につく者が増加する。こうした人口流出は近年ようやく停滞したものの、大半が老人世帯となり、また空家の多い過疎地と化している。港は昭和初期に始まる埋め立て、護岸工事により、旧状の一部を残しながら漁港として改修され (ただし漁家は港の西に続く中之浦に集中する ) 、
またこの港に通じる道路が城山の海岸沿いに設けられるなど、景観は変貌しつつある。しかし、集落内においては、新しい形式の建物は散在的にみられるにすぎず、江戸後期以後の伝統的形式の家屋からなる集落景観をよく止めている。
  このような状況に対し、昭和55年に、笠島の住民を中心にした保存協力会が発足し、丸亀市の補助のもとで、主として傷みの激しい屋根の補修工事を行って、景観の維持に努めてきている。


【集落構成とその特性】
歴史的地理的な条件は、塩飽の集落に、他地方の漁村集落、港町集落等とはひときわ異なる構成をとらせることになる。

中でも笠島は、組織的で計画的な構成が取られている。現在に続く集落構成の成立時期については詳らかでないが、正保4年(1647)には現在と同規模を有し、既に分村の新在家が存在しているので、その形式は少なくとも塩飽が最盛期を迎えた近世初期には遡るであろう。あるいは、城山の居城跡と集落構成との関係が現在では希薄であるものの、集落は港に表を向けるよりは、山手つまり旧地頭館の一郭の跡と伝える専称寺、あるいは代官福田氏の居城跡 (土塁・空堀を残す) の方向を表にしている点は、集落構成の基本が、居城のあった中世期に遡るのを物語るのかもしれない。
  集落は、北が海に面して港を擁し、他の三方は山で囲まれた東西約200M、南北約 200Mを占める
東は居城のあった城山で、他の二方の山麓には、法然上人ゆかりの専称寺の他、真言宗4か寺 (現在は廃寺) が集落を取り囲み、城山と相対する西の山麓には産土神を祀る尾上神社があり、集落の東西両端とほぼ中央に恵比寿神を祀り、港の東端には常夜燈を設け、港の中には、「たで場」があった。

道路は、東の城山と北の光厳寺山の境に向かって南北を通る東小路、海岸線に平行して弓なりに曲がる東西道路のマッチョ通りを主道路とし、東西道路は両端で枡形となり、櫛状に海岸に向かって枝道が設けられる。西端にも山に向かって尾上神社前を通る南北道路があり、南の山に沿う東西道路の田中小路で東小路と結ばれる。これらの道路は湾曲し、T字型、食い違い十字型に交わり、一部の道幅を変え、見通しできぬような組織的構成が取られている。江戸時代には、東小路、マッチョ通り、田中小路がともに「町通り」と称され、田中小路のほぼ中央南側に、年寄の一人であった吉田家があった。

 また、港よりの主入口を示すような道路形態はみられず、港を裏とする宅地割がほどこされていて、集落入り口は、港とは逆の東小路mの南端となる等の特性を見せる。

この集落入り口横には、法然上人ゆかりの専称寺があり、また「人名」の墓碑(寛永4年・1627・銘の吉田彦左衛門の墓碑は、国指定史跡)があって、村への出入りの度に拝したという。なお、城山の東海岸を廻る道路は新設(県道)である。



【伝統的建造物群の特性】
  現在は、山麓に並んでいた4カ寺は廃寺となり、港は埋め立て、護岸工事によって形状を変え(ただし、防波堤の一部は旧位置に残る)、過疎化による建物倒壊は家並みに歯抜けを生じ、また一部に新形式の家が見られるものの、いまなお往時の面影を色濃く残し、江戸時代の道路空間や建物の造形がよくわかる。
 
  東小路、マッチョ通りの主要道路沿いには、江戸時代から大正期にかけて建てられた切妻造・片入母屋造・入母屋造本瓦葺平入形式のツシ二階造りで、上階を塗屋造とし、虫籠窓・格子窓を設け、下階は、腰格子付雨戸構えと、出格子・窓出格子を組み合わせた表構えとする町屋形式の建物が立ち並び、間に土塀構えの家が散在する。
  特に、アイストップを形成する家では、一部になまこ壁を設けて引き立たせるなど、すぐれた景観美を造り出している。一方、主道路から離れると長屋門構えの家が建ち、主道路とは異なった道路空間が出現する。
  塩飽の 他集落では、長屋門を持つ家屋で道路空間を形成するのが原則で、笠島に属する新在家ではこの構成を取っている。
笠島のような構成は。塩飽で笠島とともに最重要集落であった泊に見出せるが、泊では笠島ほど組織的ではない。
  また港を有し、あるいは海に面する集落では、海に面して長屋門が立ち並ぶ構成が取られているのに、笠島では、港側に家屋の背面を見せていて、こうした点にも笠島の特性がある。
  なお、東小路の西側建物前には石積みの排水路が海まで通じ、各家ごとに石を渡し、東小路とマッチョ通りの交差部では、石橋が掛け渡されていた。排水路は、一部にコンクリートによる補修が施され、また蓋が被せられているところもあるが、こうした排水路も道路空間の質をたかめている。特に主道路沿いの建物の地形石は、その周辺部より一段と丁寧な仕事が施されている。
 

  【保存整備の基本方針】
  道路からの建築物の景観のみならず、その背景となる山容、さらには、城山並びに尾上神社境内から集落が一目されることを考慮の上、伝統的景観を失しないよう修理・修景・復旧につとめ、空間他の整備活用をはかるとともに文化施設等を設けるなど、住民の生活向上をはかるような整備計画を進める。



  


Posted by ギャラリーアルテ at 17:57Comments(2)art