2009年05月19日

地域とアート

地域とアート
美術館やギャラリーでない場所でのアートプロジェクトについて

香川県には、アルテのような形態で現代美術を専門に扱う画廊がありません。そこで、ギャラリー単位の活動だけではなかなか地域の人々との隔たりが埋まらない。そこでオルタナティブな(もう一つの)活動として地域とアートの関係を考えることにしたのです。これまでに、本島笠島地区=国の重要伝統的建造物群でのアーティスト・イン・レジデンスや琴平地区でのパイロット展を行いました。
いずれも継続のためには、地元の住民との協働が望まれるのですが、これがなかなか難しい。
そのことについて、数日に分けて、いくつか所見をお話ししたいと思います。

2006年『記憶の集積を創造の海へ~アーティスト・イン笠島』は、記憶に残るような活動で、作品など『もの』を遺したり、環境を恣意的に変えたりはしないことが基本コンセプトにありました。一方、2008年12月実施の『琴平プロジェクトこんぴらアート2008・虎丸社中』は、地域の住民に投げかけ、積極的にアート振興を図ることで、新たな町の資源としようではないかという試案でした。
面白いことにこのふたつは、全く異なる反響と結果を見出したのです。

異なる結果となった最大の要因は、地域性。
本気かどうかの違いです。
本島の島民人口は減少傾向にありましたが、その中で既に、島のお年寄りを中心としたNPOまち並保存会を形づくり、手作りの民宿事業などを実際に行っていました。

一方琴平町の場合は、母体となった勉強会が、こんぴらさんの門前町で観光業者の集まった、観光戦略会議というものでした。
つまり、地域のためということではなく、自分たちの商いの為に考えたり、行動しようというものだったのです。

プロジェクトを実施しようとする母体の地域住民の差は、結果と反響についても大きな違いをもたらしました。

まず記憶に新しい琴平でのプロジェクトについて
企画と提案はアルテが行いましたが、実行委員会は、地元県議が議長の町づくりを考える勉強会のメンバー名を連ねたものでした。地域活性化には「よそ者」「ばか者」「若者」を活用せよ、とよくいわれます。でも、間違った解釈をしている人が多いですね。この会もそうでした。「若者」とは積極的に活動に取り組む実動部隊のことなのです。年齢が若いということではないのです。もっと説明すると、前例にとらわれず、前向きに行動する人が必要だということです。住民が自立して、主体的に行動しない限り、町づくりは成功しません。どこかのシンクタンクに報告書を書かせたり、よそ者を講師に招いたりするだけでは地域は輝かないのですが、この勉強会は茶話会の域をどこまでも出ないもので、そこにまたまた余所者である私が、提案したプランにもの珍しさとひょっとしたらこれをきっかけに新しい観光になるのだろうか??どうかな??といったつまり直接的な欲望によって、後から振り返ると、名前だけの実行委員会が経済産業省の助成申請用に形作られたのでした。
まあ、ひどいもんです。なんだか解らないけど・・ということでも名前が連なって行ったのですから。ここで、もっと踏み込んだ議論になって、委員会がつくられるのなら、可能性があるということです。お人よしというか、適当というか、なんだか腑に落ちないから、反対意見も出ない雰囲気の中で、進んで行くのです。

日本的といえるのかもしれませんね。戦争責任の所在のなさ、いえ日本の無思想を改めて感じました。マネー資本主義ですね。私たちの提案するアートによる地域振興とは、そのマネー資本主義に真っ向から意義を唱えるものなのです。
そこで今回はパイロット展として、提案としての3日間のアート展を行うことになりました。
 「ばか者」とはいわゆるアイデアマンのことです。突拍子もないことを言って、周囲から異端児扱いされることもある。しかし、地元を心底愛しているその人物のアイデアに耳を傾ければ、誰も思い付かないような大胆な企画が生まれるときがあるのです。
琴平の場合、ここまではうまく運んだように感じていました。事実、実行委員会の名簿がつくられ、展覧会準備が進み、告知という際には、記者クラブの記者発表に席を連ねて、記者発表。うーーん。これも応援の範囲ということになりましょうか。。

続く
 
*「また行きたい」と思ってもらえないとね。
行政が観光宣伝に予算を投じても、受け入れた地域の接客、観光資源のアピール、ルートなど体制が整ってなければ観光客が、再び訪れるものではありません。こんぴら観光は、江戸時代からにぎわった観光地であり、今でもそのままで、つまり観光の形態が一見さんの町で、そういう意味では固体化していました。





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 地域とアート2 (2009-05-25 13:42)

Posted by ギャラリーアルテ at 18:54│Comments(2)kotohira
この記事へのコメント
おはようございます。
「直接的な欲望」と「日本の無思想」とは
同じものを別の見方でとらえたもののような気もします。

思想がないから議論に欲望しか残らないのか
欲望しかないから議論に思想が入らないのか

どっちやねん?どっちもか?ちょっと答え保留中です。
大事なのが個の欲望だから、大きなレベルの責任をうやむやにするとしたら、欲望が無責任につながる?

いろいろ考えどころが多いと思いました。
Posted by たみ家たみ家 at 2009年05月20日 07:45
たみ家さま

ありがとうございます。
欲望にはタガが必要ののですが、経済がイデオロギーとなったときから、直接的な欲望が走り出したのですね。
Posted by ソフィア at 2009年05月25日 13:57
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    コメント(2)